Posted by on 2017年05月17日 in 風の心
平成29年6月号 風の心

ある子供の発言に次のようなものがあった。

自分の事が気に入らなかった友人に、ラインで自分の悪口を流され、皆にいじめられて悲しく辛い思いをした。

またある子供はこんなことを言う。

友達と遊びに出かけたら、自分の姿を動画で撮られ、それをネットに流された。色々なプライベートがオープンになるのではないかと、不安でしょうがない。

更に悩みは続く。

自分が他の多くの友人とは異なった環境にある為、それをネタに投稿されて噂になっている。仲間はずれが苦しい。
私たちが子供の頃とは全く異なる日常の中で、現代の子供達は喘ぎ苦しんでいる。相手の気持ちを考えるという思考は、どこにも見当たらない。人が苦しんでいても何とも思わないという、無機質な空気がある。人を信じることが出来るという、溢れるような喜びを感じさせてあげたいと思うのに、不安と怯える心ばかりが見えてくる。いったい今の世の中は、何が起こってしまっているのだろう。

「倫理」人間生活の秩序、つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道、その立て方。善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの。道徳。モラル。

この「倫理」の教育は、かつて、幼子の家庭生活の中で育まれた。ある時は自分を最も愛してくれている両親や祖父母が折に触れて優しく教え語り、ある時は読んで聞かせてもらう絵本の物語から知り、またある時は小さな友人との些細な喧嘩の中で学んでいたのである。そして中学生くらいになると、家庭だけではなく、先生や友人を交えてとことん語り合い、自分の頭で考え、試行錯誤の末自分の言葉で本当の気持ちを発しながら交流し、人とは何なのか、自分とは何なのか、社会の中で人はどうあるべきなのかといった常識を身に付けていった。常に相手の目を見ながら、電気機器ではなく、人と向き合っていたはずである。それが人間同士の関係を築いた。

私の周りの、茶道を行う子供達が、お茶を点てる時に必ず客に向かっていう言葉がある。

「濃いのがいい?薄いのがいい?」「量はどうする?多め?少なめ?」そうして相手の好みの抹茶を点てようとするのである。この様に聞きなさいと教えたわけでもなく、むしろ稽古場ではあまり見ない光景かも知れない。しかし、毎回子供達は、相手の今日の状態に合うお茶を点てようと、自然に問うている。 

これは、茶の原点であると思う。特に子供の場合、茶を点てるという行為を純粋に行っている。点前が云々ということもなく、立場や許状がどうということもなく、ただ目の前にいる、お茶を飲んでくれる相手に向かって、最善の抹茶を無心で点てているのである。ある意味本当のお茶の姿がそこにある。

そして、いつも思う。この様な環境の中では、「倫理」の教育が叶うのではないかと。多くの子供達の美しい可愛らしい澄んだ心を大切に包み、育むことが出来る茶の湯とはいかにすべきか、いかにあるべきか、そう考え追求しながら、その可能性の大きさに胸を膨らませる。まだまだ私たちのやるべきことは、たくさんあるのである。

平成29年5月7日 畑中香名子