Posted by on 2018年05月17日 in 風の心
平成30年6月号 風の心
「われらが宗体と申すは 教外別伝にして 
       いふもいはれず説くもとかれず
		言句に出せば教に落ち  
           文字を立つれば宗体に背
	     たゞ一葉の翻る 風の行方を ご覧ぜよ」

謡曲『放下僧』の一節である。
奥儀とは、言うに言われず、説くに説かれず、言葉にすれば教えに落ちて、文字にすれば本来の姿に背くことになる。ただただ、一枚の葉をひるがえす見えない風の行方を見て、自分で気づいてゆくものだ。と、こんな風に解釈してみた。

遠い昔、まだ私が生まれる前に、淡々斎が点前の本を出版された。淡々斎に無限斎という号をお授けになった、前大徳寺管長円山伝衣老師は、その書物に『風興集』と名付けた。江戸中期の禅僧、白隠慧鶴の著、『槐安国語』にある「詩縁風興無限意」から取った言葉で、いかなる詩人でも文人でも意無限、物事はどうも言うに言われぬ大自然の無限であるという意味であろうか。いかなる詩人や文人が、無限大にあるものを言葉にして記そうとしても出来ない。これは、書物をその無限大にあるお茶の一部分として刊行されたものと認識し、その外にあることを自分で見つけていかなくてはならないことを教えている。

達磨大使が言われたとされる禅の根本思想に、「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」という『四聖句』がある。ことに最初の二つは、茶の道場に於いてもよく登場する。
禅の悟りは経験をして体感するもので、文字で悟りを表現することはできない。真理は人から人へ、師から弟子へ、心をもって伝えるものだから(以心伝心)、とうてい文字や言葉で伝えられるものではない。それがいけないわけではなく、経典や教えから文字や言葉で学ぶ先にあることを、自ずと探求し会得して初めて知ることが出来るという考え方。

これらは学ぶ側の姿勢として捉えられるが、教える側の教え方としても解釈することが出来る。
近頃は裏千家も点前の教本が頻繁に刊行され、少しずつ内容が変化したり、先生によってご説明が異なったりする場合も少なくない。変わったことは最新に合わせるとしても、異なる解釈がある場合どうするか。お人様に何かをお伝えする、お教えする立場としては、基本は一つの理念によって自分の中で統一されていなくてはならない。自分が一番納得する意見を選択すればいいとは言うものの、それを選び抜く力があるだろうか。難しい。なぜなら、答えは一つであるわけがないからである。
そんな時に、『放下僧』の一節を、『槐安国語』を、『四聖句』を、思い出してみてはどうだろうか。学ぶ側も教える側も、これらの考え方をよく掘り下げて理解する必要がある。知ったかぶりがいかに恥ずかしい無駄な遠回りかも、分かって来る。
教える者に本当に必要なのは、上手な話しぶりや豊富な知識を超えた、その場に応じた判断力と見抜く力。更に自分で気づいてもらえるように一枚の葉をひるがえす風を興すことではないかと、考えるこの頃である。

平成30年5月13日  畑中 香名子