Posted by on 2018年06月19日 in 風の心
平成30年7月号 風の心

スイスの新聞記者ペーター・シュミートの、京都での茶道初体験について、岡田章雄氏は次のような引用をしている。

「一人の少女が湯気の立っている釜の掛けてある炉の前に坐っていて、その炉の廻りには火箸、杓、その他の道具がきちんと並べて置いてあった。彼女は火箸で二つの炭を挟み、その炭で釜の下に火をおこした。(菓子の器が手から手に渡っている間に)娘は茶碗を取り上げそれを丁寧に拭き、漆塗りの筒から緑の粉になった茶の一匙を入れた。美しいが、しかしどんな場合にも常に儀式的性格を持つことを意識しているような動作で彼女は杓を釜の中に入れ、そして湯気のたつ杓を取り出し、煮えている湯を緑の粉の上に注いだ。それからクリームをかき回すような撹拌機でそれをかき混ぜた・・・客は茶碗を平らにした右手の上に置き、左手で支えて中身を音をさせて口の中にすすり込んだ。客は一度も休むことなく茶碗を手の上に持ち続けたまま飲み残りまで飲みほし、それからゆっくり自分の前に置くと、すぐまた取り上げた。そしてすべての人に見えるように茶碗を自分の目の前に持ってきて注意深く回し始めた。私は何か綺麗な絵でもかかれているのか、または焼き付けられているのかと伺ったが、当たり前の暗褐色のうわ薬をかけた茶碗の外は何も見当たらなかった・・・」
昭和50年代に引用されたこの文章を、現代の我々が読んでも、外国の人ならばこんな風に見て感じ、書くだろうと理解できる。そう、実に繊細な観察力をもって発見し、事実を忠実に順序良く言葉にして表している。そこには我々日本人が自動的に感じる感情、つまり「神聖な空気の中で」とか、「感謝の念を抱いて」などという発想は、もちろん知る由もない。今の若者とても、同じかも知れない。これが、茶道を経験したことのない異国の、或いは現代の日本人から見た茶ではないだろうか。
予備知識が少しでもあれば、その捉え方は異なり、もちろん表現も変わり、伝わり方も違ってくる。我々が小さい頃から教育されてきた、日本的な感覚や感性を少しでも知っていれば、見え方は変わる。

しかし岡田氏は、ドナルド・キーン氏が日本文化の理解を妨げるものとして『茶の本』を挙げ、その随筆で次のように主張している事にも触れている。
「茶の湯の理論は確かに美しい。日本に茶道ができたために優雅な茶室や多くの美術作品が生まれたには違いないが、茶道が現代日本文化の中で最も有力な要素であるという説は信じられない。或いは「野蛮人」つまり西洋人の目にはうつらない幽玄があるかも知れない。ただ、芸術の精神的な審美的な優秀さを外国人に対して不用意に説くことは、遠慮した方がよいのではないか。」

キーン氏はこう述べて、現実に茶席で見られる目ざわりな情景や、幽玄とはおよそうらはらな現代化された茶席の様子などを指摘している。
純粋に日本独自のものを、それ自体が存在しない異国の世界へ発信する難しさを物語っている。

東京オリンピックがあるせいか、茶道に於いても、外国人へのアプローチの準備が進んでいる。しかし、僅かな知識で知ったような気持ちになって、あれこれとうかつにものを言っていないだろうか。言わないことが伝える文化、「間」は日本文化の特筆すべき一つのありようだ。
茶道を知らない外国人にとって、今の若者にとって、何が必要な予備知識なのか。それは文化人類学的日本人論であろうし、日本文化論でもあると思う。茶道とは何かを語るのは、日本とは何かを語るのに等しい。先ず説明しようとしている我々が、知らない若者自身であることを知らねばなるまい。

40年以上前に書かれた書物から、今と同じ悩みを見ることが出来る。この事がまさに、茶道を異国に紹介するのは至難の業だと感じさせる。的確な要点を掴み、的確な言葉でそれを表現し、相手の反応を見ながら伝えるべき内容を変えてゆく力が、今求められている。

平成30年6月3日 畑中香名子