Posted by on 2018年09月21日 in トピックス
平成30年10月号 風の心

大坂なおみ選手の話題は、世界を駆け巡った。若干20歳にして、36歳の世界女王、大ベテランのセリーナを破り、初めてのコートで世界一になった日本人。この偉大な勝利だけではない。セリーナを応援していた会場中の人々が、ブーイングというスポーツマンシップならざる行為をしたことに対し、波風の立つ表彰式で、彼女がはっきりと「感謝の気持ち」を表したことは、それを知った全ての人の心を動かした。それが、鳴りやんだブーイングと会場の沈黙、そして世界中のニュースである。

「私は彼女のファン。でもコートに入ったらプレイヤー。」このプロ意識は本物だと痛感した。コートという世界に一歩足を踏み入れたら、動じるどころか勝利への完璧なコンディションとプレイに集中する。これは戦う者の常識である。スポーツでも、音楽でも、芸術でも、何でも同じ。人間が最高の状態、結果を望むとき、皆そう努力する。点前畳に座った時も同じである。実際これは外側に見える動の部分であり、そのために人は、精神的にも体力的にも自己コントロールを行えるよう最善を尽くす。
会場に対しては「ただ、試合を見てくれてありがとうございます。」と、対戦相手にも「プレーしてくれてありがとう。」と、勝利した世界一の彼女は、快く思っていなかった人々にも語りかけ、感謝した。私にとってその涙も発言も、印象的で嬉しかった。素晴らしい人間性と、それを作り出す満ち溢れた感受性を発見し、感動した。これは内側に見える静の部分であり、そのために人は道徳的に教育され、本来の知性と教養を身に付けるよう、日々人との関わりの中で修行してゆく。

動の部分は、ある意味寂の考え方で鍛えられる。現代は「不動の心」と表現されるこの言葉は、江戸時代に「寂は萬年繁雑ならさるを云う」と表現されている。余計なことは詰め込まない、削ぎ落された最小限のシンプルなものが、物質的にも精神的にも人を開放させ、良い状態を作る。動じない強さの根源となる。
静の部分は、豊かな感受性の中で育つのではないだろうか。養老先生が、現代の子供たちを危惧して、感性を磨き感受性を育てるために、五感を鍛える活動をしている。虫取りや自然の中での遊びを通じて、見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わう、という感覚を伸ばし、人間の感じ取る力を育む。これなくして道徳などは育たない。上辺だけの道徳心を聞き流すに留まらないからである。

今の時代はクールに軽くで、心に響かないことも多い。涙する方が、滑稽にすら受け止められる。子供たちは常に機械に向き合い返事もせず、時間に追われ、物に溢れ、五感を鍛えるどころではない。人が人と真から向き合って、相手の目を見て考え、相手の言葉に反応し、心を動かしながら物事に対応する経験を、どうやって深めるのか。
茶の湯にはその力がある。動・・・技術を磨き、それぞれの場面に対応できる動きや配慮を鍛えることが出来る。静・・・道を学び、相手を敬い、感性や人間性を鍛えることが出来る。そんなお茶を、子供たちと、お弟子さんたちと、親友と、先生と、行って初めて意味がある。

いやいや、そんなに難しいことではないかも知れない。秋のしみじみとした情緒を表現する「秋の夕暮」が過ぎると「秋の宵」が訪れ、そして「秋の夜」となり、やがて「夜半の秋」となる。細やかに詠み分けられる情緒豊かな日本の文化を、感じるだけでも茶の湯には意義がある。

平成30年9月15日   畑中香名子