Posted by on 2013年11月7日 in 風の心

(・・・前月からの続き)
玄々斎は、茶道とは何か、なぜその修養が必要なのかを『茶道の原意』に示した。この内容が全て現代に合うかは別として、玄々斎が示した、時代に左右されない茶道の基本的な心構えを、今の私たちは果たして持っているだろうか?

江戸時代には、諸大名を中心とする武家茶道、宮家や公家を中心とする茶道、豪商や千家などの茶家の行う茶道が、各々異なる環境で異なるものを求めて発展した。時にはお互いに批判をし、時には一会の茶席に同座して、その世界を深めていた。このことが後の茶道発展に大いに役立つのではあるが、それは暫く辛い時期を経てからのことである。このような立場の違いの中で茶の湯を業とし、それで生計を立てていたのは茶家であり、他の者は別の仕事で身を立てるにしても、この茶家が茶の道を捨てた場合、茶の湯文化は失われていたことと思う。特に三千家は茶家としての誇りを失わずに明治維新を乗り越え、その後もしばらくは大変苦しい時代を迎える。茶道が必要なものとして社会に認められるまで、或いは多くの人々が行うようになるまで、この辛苦は続いたのである。この時期を知らずして今を見ることはできないだろう。

明治5年(1872)、京都博覧会を催すにあたり、京都府権大参事(今でいう副知事)槇村正直(1834~1896)が外国人も楽しめるような茶席を用意できないかと前田瑞雪に要請した。前田瑞雪は師である玄々斎に相談をして、玄々斎が万延元年(1860)頃から思案していた椅子と机の茶をヒントに席が設けられた。前田瑞雪は、天保4年(1833)京都の袋物問屋の老舗に生まれ、玄々斎、又玅斎、円能斎に仕えた裏千家の茶道教授者。裏千家家元には80歳前後の高齢の門人に利休頭巾を贈る制度があり、瑞雪は30歳ぐらいの時、玄々斎から特別功労のあった門人としてその「養老頭巾」を与えられた。その後1度も着用することはなかったが、大正2年(1913)、82歳を迎えた年の初釜で始めて着用し、同年秋に円能斎に惜しまれて逝去した。彼はこの様に茶を深く行った人物であり、玄々斎より裏千家三代を助けた。博覧会では西本願寺の他に、知恩院で煎茶会、建仁寺正伝院では前田瑞雪が席主を務めて抹茶会が行われた。明治5年3月に開催されたこの第1回京都博覧会には、会期80日間の内、入場者は3万人を超え、外国人も約1000人が入場したとされている。

玄々斎の功績に続いた家元にも触れておこう。玄々斎の娘猶鹿子と結婚し、12代を継いだ又玅斎は角倉家から養子に入った。明治初期、京都に西洋式のホテルが無かった為、角倉家も外国人の宿舎となった。玄々斎は、角倉家に滞在していたフランス使節に立礼式でお茶を差し上げている。その席に御孫駒吉(後の円能斎)がちょろちょろと現れ、皆微笑ましく集ったという。その数年後、明治10年(1877)に玄々斎がこの世を去り、駒吉は5歳、又玅斎は26歳であった。又玅斎は34歳で13歳の駒吉に後を譲り外へ向けて茶道指導に当たり、妻猶鹿子が5年間家元代理を務めた後、18歳で妻をめとった円能斎が千宗室を名乗る。円能斎は又玅斎、玄々斎からの教えを形にし、耐え難きを耐えた後には素晴らしい功績を残している。このお話はいずれ・・・
平成25年10月15日   畑中 香名子