限りなく不要なものを取り払った先にある、限りなくシンプルで簡潔で分かりやすい世界。無駄のない動きの中に、洗練された美しさを見ることが出来、削りとったからこそ正直にありのままが現れる、素直な世界。最近、茶の湯をそんな風に考えることが多くなった。様々な捉え方、切り口があり、また異なる見方もあるため、一概に言えない事は承知の上である。
平成7年、京都で茶道の修行時代、10数人いる研究科の中でたった1人の友人が携帯電話を持っていた。私を含め他の人はほとんどが、公衆電話を利用して実家等に電話をかけた。その後の普及は目覚ましく、今や携帯電話からスマートホンの時代となった。それでも私は携帯電話を使っている。ガラ携と言われて意味がわからず、ガラパゴス携帯と知るまでには時間がかかった。
携帯にも、不要な機能がたくさん付いている。スマートホンも同じこと。しかし必要な機能もたくさんある事は確かで、使い方は使う人の力量に任されている。有用な機能が仕事や生活を便利にしている。幼い子供達から大人まで、ネットも含めてその機能に振り回され、社会的な問題を抱えているのも事実だ。
学校で茶道を授業として教えるようになって、多くの子供達を取り巻く環境に興味を持つようになった。
これまで学校では、先生と生徒が目と目を合わせて、学問や道徳、知識や知恵を伝達してきた。友と顔を突き合わせて、語りあい、喧嘩をし、悩み、想いを深めながら付き合ってきた。家庭でも親と子供、近所の人や親戚と、そんな風に関っていた。それが人間同士のコミュニケイションであったと思う。紙の上を鉛筆が走る音があった。省略されない日本語で話した。子供を見つめ、小さな変化に想像を重ねる親がいた。
電車の中で立っている御老人がいても、見向きもせずに画面を見ている人たち。ベビーカーは王道を通るのに、押している人は子供の顔ではなく画面を見ている。根拠の薄い権利の主張と基本的な義務の放棄は、これからの子供達にどのように影響するのか。世界に誇る経済媒体の一部である、日本のアニメーションや電機産業界の中には、利益追求と共に教育的視点で商品開発を進める人もいるのであろうか。タブレットで授業をすることが、その答えなのか。
余りにも不要なものが多すぎる気がする。使い手の取捨選択能力だけの問題に、押しつけて良いはずがないと思う。
子供達とどこか南の電波の届かない安全な場所で、寝起きを共にしながら語り合い、星・花・水・山等を見て自然の偉大さや美しさを体感し、その中の一部として生かされている人間の存在を認識し、誇り高き日本を知る機会があったらよいのではないかと考える。茶室はその凝縮である。本当の茶の湯はそれらを見せ、教えてくれる。そんな風にこの伝統文化は構築され、育まれてきた。何故なら、茶の湯を作り上げてきた人たちが、そんな生活の中にいたからである。
久しぶりに川端康成の『美しい日本の私』を読みかえしてみたくなった。
平成26年3月20日 畑中 香名子


