私の母方の祖母は、鹿児島県の出身で、11人兄妹の中、女子2人の内の1人として生まれた。大変可愛がられたと聞いている。祖母の女学校時代の写真には、袴をはいてテニスをしている様子のものもあった。また、学校に女中さんがお弁当を持って付いて来ていたらしい。
そんな祖母は、小・中学校の先生をしていた。夫である祖父が戦死して後、5人の子供を抱えて復職し、再び教員となった。戦争未亡人として、子供を育てる為に仕事を再開したのである。自分の子供に、学校に行きたければ勉強しなさい、勉強がいやなら働きなさいと、どちらの道もきっぱりとした決意を持って提供していた祖母。仕事の傍ら、民生委員もしていたそうだ。物がない時代、自分達も大変なのに、困っている方には自分のわずかな蓄えを分け与える。祖母のお葬式にいらした方のお話では、学校でお弁当を持たない生徒を別室に呼び出し、祖母が自分のお弁当を食べさせていたと聞く。
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」 親鸞聖人
祖母が口癖のように言っていた言葉である。私の父が、この言葉を紙に書いてくれて、中学生頃だっただろうか、よくその紙を見て覚えていた。今美しく咲いている桜を、明日も見ることが出来るだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。今できることは今しなければいけない。長い間、その様に理解してきた。
しかし、この頃父が書いたその小さな紙を眺めていると、違う意味が見えてくる。精神も学問も深い教育を受けて大切に育てられ、祖父と出会い、結婚して、子供にも恵まれた。祖母には、愛情豊かで昔ながらの凛とした厳しさをもつ、夫婦の幸せな暮らしがあった。教え子をたくさん戦地へ送り、それに耐えかねて自分も42歳で戦地へ向かった祖父。その後戦時中も苦労の末幼い子供と共に生き抜き、夫の戦死によって迎えた終戦後、生活は一変する。それでも変わらぬ倫理道徳観を持って、正しい事を貫き、間違っていることを正し、5人の子供だけではなく、我々孫にも厳しくしつけ、世の多くの人の為に尽くした祖母。その祖母がこの言葉をどのように思って言っていたのか。人生はいつ何時どのような変化に遭遇するかわからない。今の環境だけではなく、命さえもその瞬間に失うかもしれない。どんなに苦しい事態になっても、今この瞬間をしっかり生きる強さを持ち、精一杯前を向いて歩かねばと、思っていたのではないか。そんな風に考えるようになった。それは、私が年をとったせいかも知れない。親鸞聖人も、後者の意味で詠まれたようである。
「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」
この句も、祖母がよく口にしていたものである。明治生まれの人は、とよく言われるように、祖母も厳格な人であった。幼い頃、何でも知っていて、字も綺麗で、もの言わず何でもこなしていた祖母が、私には怖くて、すごくて、大きな存在だった。夏の夜、疲れた私の母を祖母がマッサージしながら、傍らにいる私の成績を聞いて、良いと大変褒めてくれた。悪いと当然怒られる。小学校時代は、褒めてもらいたくて勉強していたようなものだった。そんな事を考えると、今でもこの言葉が身に染みる。
祖母のような、或はそれ以上大変な思いをされた方々が、当時はたくさんおられたと思う。そのような方々の人生を学ぶことは、自分の人生を生きる上で大切な事だと思っている。孫が学校から帰ってくるのに、滑ると危ないと雪かきをして亡くなった祖母。救急車に乗る時も、丁寧な日本語で最後の言葉を残したという。
平成27年10月10日 畑中香名子


