Posted by on 2016年01月19日 in 風の心

子供達は年に1度、横浜市港北区にある大倉山記念館で、習っているピアノや歌の発表をさせて頂いている。今年はリハーサルの後、本番までずいぶんと時間があった為、館内をゆっくり見て回ることが出来た。これまで毎年通ってきたこの場所に、大切な歴史があることを知った。

この記念館は、佐賀県出身の実業家、後に東洋大学学長を務めた大倉邦彦により、昭和7年に「大倉精神文化研究所」の本館として創建された。九州の士族・江原家に生まれ、大倉洋紙店に入社し、社長の大倉文二に見込まれて婿養子となった邦彦は、その後社長に就任して事業を大きく発展させた。この会社はもともと出版業を営んでいたことから、洋書への移行に先立ち、洋紙業の世界を開いた。邦彦は同時に、本業の会社だけではなく、日本の教育界・思想界の乱れを危惧して教育の重要性を説き、戦前には私財を投じて東京目黒に富士見幼稚園、郷里の佐賀県に農村工芸学院などを開設、1932年には心の修養や研究、教育を目的としてこの研究所を創設した。

石造りの小さな、けれども厳格で伝統的な空気の漂う建造物は、北海道銀行本店や横浜正金銀行東京支店など、重厚で格調高い建築を数多く手掛けた長野宇平治によって設計された。日本建築史に多大な影響を与えた古典主義建築の第一人者である長野は、「東西文化の融合」を掲げた邦彦の理想に共鳴した。古典主義にとらわれることなく、古代ギリシャ以前の〝プレヘレニック様式〟という世界的にも希少な建築様式を用い、そこに東洋の意匠も取り入れて、東西文化が溶け合った独特の様式美を完成させた。この日、記念館出入口脇に、白黒の写真を見つけた。現在ギャラリーとして使用されている回廊が、その昔坐禅堂として使われていた様子を写したものだ。吹き抜けの洋館に坐禅堂がある。まさに東西の深い文化を調和させた空間だった。この美しい建物の中で、知識人によって精神文化が議論され研究されたことを想像すると、当時の人の熱き思いを感じることができる。研究所は戦前戦後の混乱期に何度も存亡の危機に直面したが、そのたびに邦彦が維持に尽力したため、今日まで足跡を残している。

昭和56年、横浜市が寄贈を受けて建物の保存を図り、昭和59年に横浜市大倉山記念館としてスタートした。現在は横浜市指定有形文化財となって、コンサートや各種イベント会場として利用されている。建物の外は大きな木々に囲まれて優しい木漏れ日が差し、散歩や運動をしている人々の楽しそうな声が響く。 

一階には、大倉精神文化研究所附属図書館がある。研究所の附属図書館を作るにあたって、邦彦はヨーロッパを視察し、諸外国の図書館事情を調査している。時は大正末から昭和にかけての事である。開館当初から、多くの研究者や学生が利用し、後に国立国会図書館の支部図書館となり、研究者のみへ開館した時代を経て、昭和63年より一般に公開されている。

「精神文化研究による社会貢献」を目標とした邦彦の思想を汲み、哲学、宗教、歴史、文学の入門書から専門書まで、10万冊に及ぶ図書がある。神道・仏教・儒教関連の専門書資料群や4万冊のコレクションは、全国的にも貴重なものばかりだという。

受付には女性が2人だけ、親切そうな面持ちで腰かけている。土曜日ではあったが人は少なく大変静かで、広い机と高い天井が心地よい。書庫に入ってみる。通路を幾つも歩き、整理された書棚を眺めていると、二宮尊徳の本が目に入った。手に取って開きページをめくる。なるほど、これがまた面白い。夢中になって読んでいる私の横を、ふと1人のご老人が通り過ぎた。そのまま受付に向かわれた様子で、窓口の学芸員らしき若い女性に話しかけている声が、背後から聞こえてきた。

「益田鈍翁について書かれている書物に、ルビがふってあるけれども、○○社の本にはドンオウとかかれていて、○○○にはドンノウとかかれている。どちらが本当でしょうね。」
この方は、お茶の御本を読まれていたのか・・・と思った。
(この続きは次号にて)

平成28年1月12日 畑中香名子

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