茶の道は 生涯のみちと言うなれど
心に生まる ゆずり葉のみなへ 光
大阪にお住まいで、今日庵家元直門の四九会に所属しておられた、黒田宗光先生の辞世の歌である。四月に、花月練習会に於いて唱和式を勉強する際、待光庵にある亡き黒田先生の短歌を整理し、ミニ歌集として皆様に差し上げて、それらの歌を読み解きながら歌作りを学んだ。
用意するにあたって字を読むことから入り、読めても意味が分からない部分を調べ、先生がこんな風に捉えておられたのかと、読み取るほどにそのお人柄に触れる瞬間ばかりだった。そして筆の流れを追いながら、今そこに先生がおられるような気持ちになり、ちょっと考えてはすらすらと筆を進めておられた先生の面影がありありと感じられた。
先生に、どれだけ茶事の幅広さ、面白さ、深さを学んだことだろう。先生の傍らには常に本があった。大学でも教え、たくさんの出版物もある。いつも二言目には大阪的な冗談を言って人を笑わせ、それでいて栄西や白隠の言葉に飛んでゆく。キムタクにお茶をして欲しいとウイスキー片手におっしゃるかと思えは、有馬頼底猊下とは友のように語り合う。
茶の道は生涯の道と言いますけれど、後に続くこれからの人たちへの思いが心に生まれてみますと、今生涯と共に終わろうとしている私の道は、ゆずり葉の皆様へ引き継がれて、生き続けることが出来るのです。そうおっしゃってこの世を去られたのではないかと、今は思っている。そして、先生の道を生かしているだろうか、努力をして先生の想いをつないでいるだろうか、自問自答が続く。
サッカーの指導者、ロジェ・ルメール(元フランス代表監督)の「学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない」との言葉は、指導の本質を突いている。何事もそのような姿勢で教え、教わることが基本であるはずだ。まず自己の立脚点を確認し、常に己を磨き、ぶれずに進むことが必要だと思っている。また、これからの茶の湯を考える時、過去から続いている現在の姿を理解し、古人が問題を乗り越えてきた歴史を学ぶことも大切である。
最近触れた淡々斎宗匠の言葉がある。昭和27年1月のお筆である。
「(略)こうした際に、返って本国の日本では、何かなし画期的な変改、伝統を破ってまでも外国文化の吸収を主にして、新興の気分をかもし出そうという傾向は、自省しなければならないかと思います。日本人はもっと日本を知らなければなりません。それは良き優れた面も、劣って及ばない点も共に見極めるところに、将来の発展が約束されるのではないかと思います。(略)もちろん外国文明を見習わなければならぬ点も多くあり、茶道にも時代に応じた改良も必要ではありますが、彼の良さをとり、己の足らざるを補うには、全てに正しい批判力を持たなければなりません。茶道が国際的に飛躍することは、今日では夢でなく、既に現実の問題となって参りました。この際に指導者として立たれる茶道人にして、従来のようにただに点前の是非善悪にのみ没頭して茶道本来の目的、精神的内容についてなんらの検討をも加えませぬならば誠に恥ずかしいことで、(略)」
この後には国内の問題も取り上げて、それについて「茶道に携わるもの全般の責任であり、指導者の無自覚、不勉強、無資格によるものであります。」と書かれている。戦後六年が終わり、七年目を迎えるという時である。
常に今を再考しなくてはいけない。先人達の想いを知り、それを自分に問うべきではないだろうか。それが自分の在り方を模索するすべであると思う。
平成28年5月17日 畑中香名子


