Posted by on 2017年07月12日 in 風の心
平成29年8月号 風の心

胸が痛む、息が出来ないように苦しい、気持ちが重い。春にはご挨拶に伺おうと何度も母と言っていたのに、間に合わなかった。どれだけの人に、お茶を通じて幸せを届けたか。どれだけの人を、茶の道で豊かにしたか。先生のご功績ははかり知れない。97歳でその生涯を閉じ、天国に召された。黒田宗光先生に次いで、大きな柱を失った日だった。

東京の西谷先生は、矢島先生と共に淡交会東京支部を作り上げた。東京を八つに分け、東西を決め、関東をリードして来た方々の内の一人であった。全盛期には、300人近くお弟子さんがいたといわれる。亡くなった東京道場多田所長のご指示で、母の支え役としてご縁を賜った。茶道具の良し悪しやお茶の在り方の話では、いつも母と意気投合していた。社中ではない私にまでも、大変細やかなご指導をして下さり、可愛がって頂いた。遠い昔、西谷先生、矢島先生をお茶事にお呼びして、実践で学んだ日のことを思い出す。

道具を持っているだけではない。点前や教えも完璧だった。気持ちも凄い。初めて東京好日会に釜を掛けたのは30代。その後何度も席を持たれ、70歳を過ぎても、自ら点前をなさった。たとえ濃茶席が十数席あっても、全てなさるのである。市ヶ谷東京道場最初の会も、先生がお茶を点てる濃茶席、献茶の添え釜もたくさんされた。

いつも私に、朔日稽古へ行って京都で学びなさいと言ってくれた。先生ご自身が、若い頃は毎月京都へ通っておられたそうだ。組織を作り上げた後は全て後輩に譲り、偉くなることよりも稽古をしてたくさんのお弟子さんを育てることを選んだ。奥伝が大好きで、いつも楽しそうに「奥伝をやりましょう」とおっしゃった。稽古には本物が掛った。歴代御家元は勿論のこと、親しくされていた田山方南先生の軸や数寄者の軸も、良く拝見した。 

常に前に進み続けていた。淡々斎時代、女性で初めて老分になられた堀越宗圓先生の弟子であり、偉大な堀越先生ご自身に、そのスケールの大きさの中で学ばれた。若い頃は車で市場へ魚を買いに行き、茶事をされたと伺う。一週間全て稽古日であったけれど、少ない休みの日には、論語や推理小説を読んでおられた。思わず真似して買ったその単行本は、今も私の書棚に鎮座している。

前列では社中の先輩たちが、肩を振るわせ、声を上げて泣いている。先生が稽古場を閉じられて何年も経っていたけれども、大勢がそこに集まった。本当に先生を尊敬し、お慕い申し上げ、ついてきた方々である。病院でも施設でもどこでも、たとえ記憶がなくなっても、生きていてそうしていて下さるだけで良かった。居なくなってしまったと思うと、どれだけの無力感か、寂しいなんてものでは表せない空虚な気持ちである。白く美しいお顔の、先生の棺が出てゆくとき、こみ上げる気持ちと涙、先生との時間の最後だった。

力の抜けた体で、帰りの車を運転していた。ふと思った。何のご恩返しも出来ていない、ご恩返しをしなくてはいけないと。やるべきことがあると思えた。もう何も出来ないくらい悲しかったのに、やらなくてはいけないと思っているのである。

「茶の湯とは何だろう なぜ茶の湯をするのだろう」という、最初から持ち続けている問いが、また深く迷路のように広がった。赫々たる先生を失って、なぜか自然と一に戻り、自分の不足の所を直してまたひたすら修行するのみ。答えは更に遠くなったと感じている。

平成29年7月11日 畑中香名子