Posted by on 2021年02月26日 in 風の心
令和3年3月号 風の心

毎年初釜の折に、美しく華麗な牡丹の花を、紅白で贈ってくださる方がいる。鉢に植えられたその花の蕾は、大きな縦長の箱に入って厳重に守られながら、今年も待光庵に届いた。
コロナウイルス感染拡大を避けるため、緊急事態宣言により初釜が中止になったとはいえ、これらの宝物は京懐石りほうの店内で静かに大きな花びらを開き、訪れたお客様の前で香り高く堂々と存在して、目を、心を癒し切った。まことに有難いことである。

今年、りほうの店内でその牡丹を眺めていたら、ふと木下利玄の歌を思い出した。大正11年に肺結核になり、病床で詠んだ歌である。

 牡丹花は咲き定まりて静かなり 花の占めたる位置の確かさ

白洲正子はこの歌に対して、次のように語る。

この歌には何か動かしがたい覚悟とでもいいたいものが現れており、幽明の境にほのかに浮かんだ牡丹の花に、永遠の生命を託した静かな喜びが感じられる。
もともと花とはそういうものである。これは切り花ではなく、鉢植えだったかも知れないが、どちらにしても一日かぎりのはかない命であるから、先定まって器に入れたその瞬間が「花」なのだ。では、自然のままで眺めたらいいだろうにと思うのは美を解さぬものの言で、自然の花が美しいのは当たり前のことだが、人間が関わることによってそれは一つの「思想」となる。

なるほど、確かにそうだ。当時結核にかかるということは、余命の限りが現実になることである。牡丹の花が静かに咲き定まった姿は、利玄と同じく余命がはっきりしている。大輪が占めるその存在そのものが、確かにそこにある、確かに僕はここに生きている、という生命の喜びを表す。「占めたる位置の確かさ」という表現に、力強く輝かしい「生」を感じる。

木下利玄(きのした りげん)は、明治から大正にかけて生きた子爵であり、日本の歌人である。本名は利玄、としはると読む。
岡山県足守藩最後の藩主、木下利恭の弟、利永の二男として生まれるが、明治24年、利玄五歳の時に利恭の死去により、宗家である木下子爵家の養子となる。家督を継ぐために上京、学習院初等科で武者小路実篤と同級になり、東京帝国大学では佐佐木信綱に師事して短歌を学ぶ。
明治43年には、実篤や志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』を創刊、白樺派の代表的歌人の一人として短歌や散文を発表。結婚して子をもうけるも、大正11年に肺結核にかかり、病床で過ごすことが多くなる。大正14年に鎌倉の自宅にて死去。享年四十歳。

花は生けるために切ってしまったその時から、確実に死に向かって時間を過ごす。たとえ鉢植えや地植えでも、散りゆく時を迎えることは決まっている。そんな花を人間の手で切り、愛でるために生ける。であるからには、花の「生」を精一杯生かして初めて、花を生ける価値がある。そこにこそ、生ける人の「思想」が現れる。
花を生けるという行為は途轍もなく深くて、ある意味花に対する責任もある。「思想」となって人の目に映る花を生けるためには、己の感性を磨かなければならない。そんなことを教えてくれる牡丹の花に、また来年も会いたい。

令和3年2月24日 畑中香名子