Posted by on 2021年04月1日 in 風の心
令和3年4月号 風の心

源氏物語の茶事を、数年間行って来た。2015年の3月に母がこの長編の茶事を始めてから、もう6年の月日が経つ。この度は、いよいよ最後の宇治十帖に入る。

源氏物語を読んでいると、「あはれ」という言葉を随所にみつける。現代では悲しく不憫なイメージをもつこの言葉はかつて、広く深い、繊細な日本人の心の感触を、その色彩を、数多く表現していた。すごいという感動の一言だったり、きゅんと切ない気持ちや、楽しいこと、愉快な気分、嬉しさも伝えることができる、万能な言葉であった。現代とは全く異なる使われ方もしていたのである
作家でエッセイストだった近藤富枝は、この「あはれ」について、次のような興味深いエッセイを残している。

「王朝の宮廷では春と秋とどちらが情趣が深いかを争った記録があるが、教養人にとって美を感ずる心の豊かさが大切な資格であった。もちろん自然だけではない。光ばかりの美貌のひと、みごとな装束、空薫物の香のほどよい部屋の佇まいなどすべてあはれであり、人の心の優しさ、つれなさすべてあはれで、〝あはれと思ふひと〟は恋慕している相手のことを言うのだった
こんな言い方をすると、王朝人は何でもあはれの一言で片づけてしまったように聞こえては困る。ただいいなぁではなくて、感動がなくてはいけない。それも物狂おしいほどの感動が含まれたときに、あはれは真価を発揮する。一瞬呆然自失、ゾーッとして、身の震えをおぼえる。これがあはれを知ることなのであった。
『源氏物語』のなかの主調音を、もののあはれなりと言い出したのは本居宣長であるが、たしかに王朝人の美意識の極限はここに氷結されているという感じである。典拠好きの日本人は以後あらゆることの美の規準を『源氏物語』に求めるので、当然もののあはれは文学の世界でも、美術工芸の世界でも、長くかつ繰り返し生命を持ちつづける。
王朝人が特に感動するのは何事であれ〝うつろい〟ということであった。四季がうつろい行くときのあやしいまでの美しさを、彼らは貧欲に吸い取り讃嘆するのである。また、空のうつろいもあはれを感じる現象の最大のもので、「夕暮の静かなるに、空のけしきいとあはれなり」(夕顔の巻)とあるが、次第に黄昏ていく空の、彩りの変化の妙こそあはれなのであった。」(抜粋)

近藤はこう記した後に、賢木の巻を取り上げて、光源氏との恋を諦めて伊勢に旅立とうとしている六条御息所、野宮にいるその人を訪ねて光が一夜を共にした後、暁の別れに未練の思いで空の景色や虫の音に心乱す様子に触れている。「女もえ心強からず、名残あはれにて、ながめたまふ」暁の空の景色が日本人に突き付ける、あはれの結果である。
自然の移ろいをあはれと感じ、時には人事のあはれと重ね、人の力ではどうすることもできない、やるせないことやその思いをも伝えることができる「あはれ」・・・人生を味倒した者にのみ、読み取れる感覚なのかも知れない。

宇治十帖をたどる中で、再び本当のあはれを感じ取っていければと、夕日が沈むオレンジ色の空の下、本のページをめくるこの頃である。

令和3年3月26日 畑中香名子