令和4年、再び待光庵初釜を行うことができませんでした。コロナウイルス感染拡大に伴い、昨年に引き続き、新春の寿ぎを一碗のお茶と共に皆様と祝うことが叶いません。何となくやり残したことがあるような心持ちで、一月が終わろうとしています。
2年間、誰もが何度も考えてきた、この先お茶はどうなるのだろう・・・いつまでこんな風に行わなければならない?・・・私たちのお茶はもとに戻るの?・・・茶道はどんな変化を求められる?・・・
改めて今まで何も気にせずに行ってきた、行えてきたことがどれだけ幸せだったかを思い知り、「日常」とか「無事」ということの大切さや重みを、心から感じている毎日です。
それは、全世界ウイルス感染という犠牲を払わなくても学べることです。しかしこうなった以上はこのことをマイナスではなくプラスにするために、我々は考え行動し、嘆くよりも自分自身やその周りの世界が結果として良い方向へ伸びる、広がるという実績をつくることがより良いのではないかと考えます。それには自己と向き合うことと、自分以外の誰かと向き合うこと、その両面が必要です。
「しゃかりき」という言葉は釈迦力と書くそうです。釈迦が多くの人を救うために懸命に力を尽くしたことから、必死で一生懸命頑張ることを「しゃかりきに」というようになったとか。
そのお釈迦様の教え、仏教を少しかじってみると、四方印という四つの教えと出会います。未熟者なりに様々な本を開きながら解釈をしてみました
「一切皆苦(いっさいかいく)」人生は思い通りにはならない、あらゆるものが苦である。(生きる苦しみ、老いの苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみという四苦、更に物や名誉など求めるものが手に入らない苦しみ、憎しみを抱く相手と出会う苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、心身が思い通りにならない苦しみが加わって八苦。)
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」なぜ苦かといえば、すべてのことは常で無く執着できない、変化して移り変わるものであるし、
「諸法無我(しょほうむが)」すべてのことは我が無い、物事は私物私事でない、周りと関係しあって影響や干渉を受けながら存在し、変化し続けているから。
つまり大自然と同じく、自分は決して一人で存在しているわけではない。「我」という自己は、周りとつながって生かされているのであって、自分のもののように見えても自分のものなどない。したがってその周りとのつながりの中で変化することを受け入れなくてはならない。
「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」そのことを理解して飲み込むことができれば、変化すら生滅がない、何にも動じない安定した気持ち、静かな心でいられて、仏教が目指す悟りに近づく。
ある和尚様の、畑で作務をされている後姿を思い出します。今のコロナの世の中を、チャンスと捉えることもなく、もうだめだと思うこともなく、常の行動を常のように淡々と行う。心乱れることなく、目の前のことに尽くし飲み込んでいく。
もちろん先に述べたように、諸々に対処して新たな行動も起こします。黙って見ているのではなく、何ができるのか考えて考えて、どんどん行っていく。2020年2月に催した茶事での各服点を皮切りに、茶事や茶会の開催方法も早々にこれまでとは異なる形式に変えましたし、稽古や座学の在り方も工夫しています。これからまだまだ変化させて、より実り多き充実した時間とするために更なる改革を行い、プラス度を上げていきます。
けれどもその根本には、ぶれない自分の芯として、普遍的な教えがあります。それが和尚様の背中に映る四方印、それが人の道ではないかと、その道を悟らせてくれるのも茶道ではないかと思うのです。
独座の茶を除けば、そこには主と客がいる。独座して自分と向き合い、主客共にして人と向き合える。そのような茶道の真っただ中で、我々は自らを律する学びをいただける喜びを、感じているのではないでしょうか。そのような茶の道を、これからも釈迦力になって歩んで行きたいと思っています。
令和4年1月24日 畑中香名子


