和巾点の茶事を、炉の立礼で行っている。利休様の古書によりこの点前を復興された玄々斎の想いはどこにあったのか、いつも問い、考える。
慶応元年6月に、中院家を通じて願い出ていた孝明天皇への献茶を許され、翌2年にその献茶を記念して献残茶を差し上げる席に、復興された「和巾点」が披露される。正月19日、稽古初めの節より「禁裏御所拝領物之披露 当正月献上御茶残点進之記 大居士古書ニヨリ和巾点復興 右書密参箱ニ入レ床脇棚ニ荘ル」という状況で、献上の残茶「龍之影」が振る舞われる。井口宗匠はその時の様子を、会記をはじめとする当時の記録からまとめておられる。献茶は慶応元年の秋、二年の春と行われ、秋には「御花器 古銅真形薄端」を拝領、春には「御花 菊花三ツ玉白金細工」を拝領している。その後も明治2年巳年迄、春秋と年に2回、5年間近く続いていたようだ。
しかし、まだよくわからないことがたくさんある。和巾点とは拝領の裂地のための点前であるか、当日菊大棗に入れられた献残茶を畳に直置きしないために和巾を敷いたのか、であればむしろ献残茶との関係性あっての和巾だったのか、または別の記録に、菊、桐の蒔絵をした大棗を銀襴金襴の袋に修め長盆にのせてあったとも書かれている。その後又玅斎時代に許状化されたと聞き及ぶ。現在の捉え方とは異なる面が色々あったのだろうと推測する。若輩からは、見えていない部分があり過ぎて、情けないくらいである。
玄々斎が裏千家の養子になったのは、文政二年(1819) 10歳の時で、義理の父である認得斎は50歳であった。認得斎の室、松室宗江は、洛北貴船の旧家の人で、大変しっかりした茶人であり、認得斎が57歳で没した後は、玄々斎の教育をする。天保十五年(1844) 67歳で亡くなるまで、玄々斎の17歳から34、5歳までを見守っていたことになる。
玄々斎の室は一つ年上の認得斎の娘、まち子である。玄華斎の斎号、又華山宗柏の号を持ち、堂々と箱書に「裏千家十代実娘宗柏」と記すような茶人、男まさりの婦人だったらしい。そのまち子が玄々斎に先立ち36歳で他界、まち子の妹、てる女が嫁ぎ先から呼び戻されて後妻となる。まもなく長男千代松、後の一如斎玄室が生まれ、続いて妹猶鹿子、後の又玅斎室、真精院が誕生する。玄々斎は、この上ない喜びだった長男誕生に際し、「栄へなき千世を心の松の種」の句を作り前途を祝したが、文久二年に17歳で逝去してしまう。利発だったこの千代松は、6歳で廻り花を稽古、八歳には既に立派な書を残し、11歳で父玄々斎との合作「忍達磨」の軸を書いている。
玄々斎が数多くの公卿や武家とのつながりを深めていたことや、各地へ稽古の縁をつないだことは良く知られている。高弟の一人、前田瑞雪は、師である玄々斎を茶事に招いた。この時の懐石に鯛一枚を使用、頭より一寸程肉をつけて焼物とし、その次を煮物に用い、更にその次を四角に切って汁に用い、ふきのとうをばらばらとふりかけ、尾のところを細造りにして向うに、鰭は二枚にへいで焼いて八寸に用い、皮も焼いて絞り生姜の吸物に用いた。玄々斎はこの鯛一式の懐石を賞賛して、翌日次のような狂歌を贈った。
蛭子殿へ そなえし鯛の懐石は 有がたいやら いとどめでたい
この日の亭主瑞雪は、京都参事植村正直の依頼により、明治五年京都博覧会に来場した外国人向けの茶席を担当し、玄々斎に相談して、台子をそのまま点茶の台として、腰かけて点前をしたとされている。立礼式の発表、始まりである。
玄々斎について、短い紙面には、その百分の一くらいの出来事しか記すことはできない。しかし、今この激動の時代に玄々斎の功績を振り返ることで、柔軟な視野と広域な学問・教養をその探求心が活かし、その時に合わせた茶の湯、先を見据えた茶道を考案した玄々斎の姿を知ることができる。時代に即した自由な発想と強い行動力が必要な今、少しでもこれからの茶の道を考える手立てとしたい。
令和4年4月25日 畑中香名子


