Posted by on 2024年02月28日 in 風の心
令和6年3月号 風の心

静かな住宅街の門を開けた。気持ちよく晴れたその日、清らかに水の打たれた、梅の香りがほんのりと漂うエントランスを進んで、その方のお宅へお邪魔するのは二度目だった。記憶が蘇る。

初めてお茶事にお招き頂いた日、綺麗なお宅にて、たったお一人で料理も水屋も点前もなさられたことに、とても胸を打たれた。昔京都の裏千家学園で学んでいた頃、星野先生が、「茶事は、誰にも頼らず一人ですべてできなくては、茶事が出来るとは言えないものです。」とおっしゃったあの時の光景は、常に私の脳裏に深くある。だからこそ、多くを周りに頼って茶事をする自分自身が、とても中途半端だと思っている。そんな中、その方の静かな振る舞い、明るいお話し、手際のよい進め方、美しい点前・・・を拝見して、星野先生の言葉が本物になっていた。

当時の思い出を回想しながら、今回再び、こうしてお茶事のお招きを賜ったことを、幸せに思っていた。寄付で汲出し茶碗に蕎麦茶を頂き、決して慌ただしさを感じさせない、穏やかなお人柄に惹きつけられつつ、茶事が始まった。

露地で迎付を受けながら、庭のお話を伺う。日頃樹木やお花を手入れなさるご様子が、目に浮かぶ。以前より、鳥に生飯(さば)をされると聞いていたお庭から眺めると、想像していたように、空は青く広く大きかった。そして自分が蹲を使わせていただくと、その水の流れに心が洗われる。綺麗な石と水の調和である。

席に入る。母の為にも椅子が用意され、点前座も立礼にして下さっていた。堂々とした掛け軸に、ようこそという思いを頂き、程よい会話の後、懐石が運ばれた。

この日の為にご用意された各種の美味しいお酒、季節の白葱の美味しいこと、梅を酢に漬けたお手製のドレッシングはとてもまろやか。葱・にんにく・生姜・ベーコンを和風出汁で仕上げた特別小吸物は、極寒、多忙の我々の体を労わって、力が付きますようにとお出し下さった。形を追うなどというレベルでは毛頭ない。とうの昔に基本はクリアーし、何もかもを実践で体感した後にしか発想できない、客を想う本当の料理をお出し下さった。椅子に腰かけている我々に、正座をしてお給仕して下さる御姿に、目線を低くされるお心遣いを感じた。何でもおできになるからこそ、謙虚な姿勢で向き合われる。

美しいお菓子の後のお茶の時間は、しんと静まり返った中で、ご亭主のお姿を、その間(ま)の心地よさを、瞳に焼き付けて学んだ。呼吸が違う、そう思った。判断力の極めて高い、ある意味厳しい高水準の運動の世界で培った落ち着き、のような呼吸を服紗に映す。気品とでも言うべきなのか。さっぱりとした無駄のない、テンポの良い時間は、安心感に包まれる。

帰りの車の中で母が言う。「今日の茶事が本当のお茶ですよ。いい勉強をさせて頂いたわね。」本当にそうだった。人をもてなす時の自分の想いが、押しつけでもなく、自然と客にとって心地よい形になる。そんな風にできることが、お茶なのだと思いながら、夕暮れの国道246号を走っていた。さぞご準備にご尽力され、また買い物、仕込みなどをはじめお一人でのお働きに、お疲れもひときわではないかと、ハンドルを握った私の心は、まだご亭主のもとに残っていた。

出ることもなく、入ることもなく、自然にしてお相手を想う優しさ・・・ご亭主の大きな懐にお入れいただき、たくさんの事を知った。

毎回基本的な失策の多い自分の姿を、恥ずかしく思う。一人では何もできない己を変えるには、まだまだ山は高く険しく、それを元気に笑顔で登らないと。素晴らしい、たくさんの先輩方が、周りにいて下さるのだから。

令和6年2月24日 畑中香名子