「心の調べ」
どんな美しい人にお会いしても、私はその姿を見ることはできませんが、その方の性格はよく知ることができます。美しい心根の方の心の調べは、そのまま声に美しくひびいてくるからです。声のよしあしではありません、雰囲気と申しますか、声の感じですね。
箏の音色も同じことで、弾ずる人の性格ははっきりとそのまま糸の調べに生きてまいります。心のあり方こそ大切と思います。七歳の年までに私を慰めてくれた月や花、鳥などが、私の見た形ある最後のものでした。それが今でも、美しく大切に心にしまってありますが、その二年後に箏を習い始めてから今日まで、私は明けても暮れても自分の心を磨き、わざを高めることにすべてを向けてまいりました。生活そのものが芸でなければならない、という信念で生きてまいりました。私のきた道―芸に生きてきたことを幸福と思いますし、また身体が不自由であったために、芸一筋に生きられたと感謝しております。
宮城道雄 随筆『水の変態』より
箏曲宮城会 宮城道雄生誕百三十年記念 の全国演奏会に伺った。東京国際フォーラムには、宮城会の奏者たちが全国から相当数集まり、11時の開演から20時15分の終演まで、実に21曲の演奏を披露した。母や私の箏の師匠である中島美喜子先生は、その中の2曲にお出ましになり、大師範というお立場で責任を果たされた。
プログラムの最後、「交声曲 松」は、箏、三絃、十七絃、胡弓、打物、笙、尺八、フルート、合唱、合わせて実に総勢185名の合同演奏であった。目から入る錚々たる演奏者連なる舞台の様子、耳から聞こえるその音色や変化に富んだメロディライン、圧巻と言う空気がホール中を包み込み、見る者、聞く者を釘付けにした。
歌詞は大和田建樹の詩集『雪月花』よりとられ、花も紅葉も盛りを過ぎれば散ってしまうが、松は風雨にも耐え、色あせることもないと歌う。「苦難に耐えて、真面目な仕事をすれば、常盤木のような根強さがあるといったようにも私には受け取れるので、この歌は朝鮮時代から作曲してみたいと思っていた」と宮城は記している。
舞台上の185名の前に、指揮者はいない。それでも26分間のこの大曲を、その人数で一糸乱れず集中して演じ切る。そこに魂のようなものを感じた。魂の源には、宮城道雄が居たように思う。お名前しか存じ上げない私ですら、強烈に宮城という人物に引き込まれて行った。
中島先生の修行時代は、宮城先生の稽古場に住み込みで修練を積み、狭い部屋に背中合わせに二人、それぞれの箏音をものともせずに己の絃をはじけないといけなかったと伺っている。芸事の修行が非常に厳しい時代である。毎日毎日、寸暇を惜しんで技術を磨くだけではない。周りの方々のお世話や諸々の生活雑務もこなされた上での修練、若かりし日にどれだけの御多忙、お気遣い、ご苦労などがおありだっただろうか。
「雪」
雪で想い出すのは、元の音楽学校が今の芸術大学に変って間もない頃であった。やはり大雪の降った朝、私が牧瀬に手を引かれて学校の門へ入ると、もう私の課の生徒が大勢来て雪を掻いていた。「皆さん早いですね」と云うと、「先生がいらっしゃるまでに足元が危なくないようにみんなで雪を掻いています」と云った。私はこの生徒の心持がうれしかった。
日本では昔から師を想い、師は又弟子を想う、その美しい心がやはり芸にも現れるのではないかと思う。西洋でも師に対する心は同じらしい。これは師弟のみに限らず、親子・兄弟・他人同志でも思い遣りのある温かい心は、箏の音色のどこかにひそんで聞こえる。
地唄の名曲「ゆき」の始めの文句は「花も雪も払えば清き袂かな・・・」とあるが、私達は白雪のような清い心で世のすべてにのぞみたいと思っている。
『明日の別れ』より
私たちが「時代」という言葉で片づけてしまっている大切なことを、気付かせてくれる文章に、言葉に、出会った。今しばらく宮城道雄の生き方に触れ、学び、考えてみたいと思っている。
令和6年4月25日 畑中香名子