
今年の待光庵研修旅行は、熊本で八代焼を見学し、鹿児島における和合の茶会に参加する旅であった。総勢42名、素晴らしい郷である熊本県観光と、101歳の大宗匠のこみ上げる平和への想いに触れ、笑顔と感動の2泊3日は、深く心に刻まれた。
9月20日
我々スタッフは羽田に前泊し、朝八時発のJAL飛行機に無事全員乗り込んだものの、飛行機がなかなか離陸しない。結果的には管制塔とのやり取りに問題があり、40分ほどの遅れで出発。機体が斜めに飛び上がる時には、どうかこの飛行機が無事に到着しますようにと願うばかりだった。飛行機の中では、この遅れを旅のどこで詰めようかと思案していた。少しでも楽しい旅にと、欲張ってたくさん入れた行程を削りたくない・・・各所で10分ずつ短くしたら何とかなるかと。
無事熊本空港に飛行機の車輪が降り立ったときには、安堵の上の安堵。空港出口ではベテランのバスガイドさんが待っていてくれた。皆さんを誘導してまずはお手洗いへ。その間の打ち合わせでは、遅れをどう取り戻すか、それにより昼食場所など到着時間が変更になる箇所への連絡など、お互いに手早く対処が始まる。バスに乗り込むと、彼女はトークも一段と素晴らしい。相模原市の人口や相模大野の環境、待光庵の様子、茶道についてなど見事に調べ上げての対応、我々に合わせた観光案内を心掛けて下さる姿に多くを学んだ。相手のことをよく知った上で相手に心を寄せた、温かいもてなしをされる方だった。
42名の迅速なご協力のもと、銘菓取り扱いの香梅にてお菓子を購入し、早々に熊本城へ。余りの暑さにふうふう言いながらも、何とかそのとても美しい姿と地震の辛さや厳しさを共に感じ取ることが出来た。人間の力だけで7年もかけて作り上げた建築の繊細でしなやかなシルエット、敵から守るための賢い工夫、文明の無い時代の知恵の深みを思い知る。更に、綺麗に戻った姿の足元にはまだまだ修復箇所があり、今後30年近く続く工事を想うとき、この城を作った当時と修復している現代の技術の差は、人間の差とは、一体何なのだろうと考えさせられた。
昼食場所でホッと一息ゆっくりして再度元気を復活させると、一か所やむを得ず省略して八代(高田)焼宗家上野窯へ。
八代(高田)焼宗家上野窯の歴史は、秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正公に従い渡来した陶工尊楷(後に上野喜蔵高国と改名)が、慶長七年(1602)、細川忠興公の小倉入城の際招かれ、豊前国上野釜の口(福岡県田川郡)に開窯したのが始まり。後に寛永九年(1632)細川忠利公の肥後御国替の際に、三斎公の八代入城に従い、八代郡高田郷に開窯した。幕末まで細川家御用窯を続ける。細川家絵師が書いた見事な注文書の絵の通りに、焼き物を仕上げるのが仕事。この困難な作業をこなし、青磁象嵌を中心に古い時代には南蛮手や古唐津なども交えながら、その伝統を守り続けてきた。大変な技術力と手間暇を要する青磁象嵌の技法により大名家の受注をこなしてきた上野家にとって、明治以降の社会体制は大変厳しいものであったが、熊本の地で親子・家族協力して、今日もこつこつと日本の匠を守り続けている。片田舎で、苦しくても文化を守るという強い精神を見ることが出来た。
全室海に面しているホテルに着くと、さっそくテラスでお茶会を。待光庵から送った荷物を解き、八代焼で頂いた茶碗などを使いながら、皆様にはゆっくりと夕焼けの海を眺めての一服。二席の茶席は待光庵社中、芳月会の皆様のご協力でスムーズに終了した。下見の時に誓った、18時18分の日没に御茶を一服、という使命を果たせて安堵。続いて宴会場では美味しい海の幸を満喫しながら、黒三点となった三名の男性のインタビュー「香名子の部屋」と、大宗匠にちなんだ「わくわく くまモンくじ引き大会」で盛り上がりを。温泉の露天風呂で夜空の輝く星を眺めながら、幸せ一杯の初日が終わろうとしていた。
大宗匠和合の茶会ご報告となるこの続きは、次号にて・・・
令和6年9月26日 畑中香名子