Posted by on 2025年04月29日 in 風の心
令和7年5月号 風の心

 出雲、松江の旅をした。もっともっと見たいもの、聞きたいこと、体験したいことがあった。これが率直な感想である。しかし時間的な問題もあり、頂いた3日間に精一杯努力をして、あちこちへ回ってみた。

 一番心に残ったのは、有沢山荘の菅田庵(かんでんあん)と御風呂屋、向月亭である。これらは唯一、230年間移動せずに、最初の状態が保たれて現存する、貴重な茶室。当時の不昧公の目線でものを見ることが出来る、素晴らしい空間だった。

 有沢山荘は、松江駅の北に位置する菅田町(すがたちょう)にある。時の家老、有沢織部直玄が、藩祖松平直政公から賜った一帯の山地であり、直玄は此処に古茶屋を建てて山荘を営んでいたという。
 寛政二年(1790年)ごろ、有沢家六代織部弌善(かずよし)が藩主松平不味公の指示により、管田庵と御風呂屋を建て、不昧公の弟瓢庵公の好みによって向月亭とその庭が作られた。

 この山で鷹狩を終えた不昧公は、御成道を通って馬場を過ぎ坂道を上ると御風呂屋に辿り着く。草履の汚れを取るように作られた踏み石を歩き、土間から部屋に入る。一畳で脱衣をすると、その先は蒸し風呂、つまり現代のサウナである。蒸された後は板の間の流し場、または水槽で水にかかり汗を流して、隣接した二畳で着衣。更に隣にある別の二畳、袴着け(寄付)で休息の後、腰掛から一畳台目中板隅炉洞床の席「菅田庵」に入るのである。
 私は生まれて初めて、当時の蒸し風呂を拝見した。このように寄付に蒸し風呂を備えた茶室は異例で、山荘ならではとの説明を受けた
 現在、我々見学者が中に入ることはできないが、躙口から拝見するとさすがに茶室は少し薄暗い。主客が非常に接近する一畳台目という最も小さい茶室でありながら、年月の艶のあるきっぱりと敷かれた中板が、主客の世界をはっきり分けているのを痛切に感じた。逆に一畳台目という空間に中板を据えるからこそ、余計にその距離感を感じるのかも知れない。いつかどこかで、このような座に座ってみたいと思った。

 続いて建仁寺垣の露地門を出ると、その先にある向月亭に至る。東と南を遙かに眺望でき、中秋の頃に東方萩の台に見る月が最も美しいと伺う。茅葺の茶室は四畳半台目向切り、台目床は南面している。周りに入側があり、更に外部には細竹を几帳面に並べた軽快な竹縁が廻る。
 茶室を背にして、大名になった気分で景色を眺めると、その広大な空と遙かに広がる町に、この世は我の手中にありと感じる気持ちがわかる気がした。書物には、遠くは津田の松原、大橋川、出雲富士を望むと書かれている。遠くへ目線が行くように、暫く先まで平らに刈り込まれた目前の木々、このような工夫はまさに知恵というもの。古人の賢さを知ることばかりである。

 今回偶然にも、松江藩歴代藩主の菩提寺、浄土宗月照寺にて、茶筅供養に参加した。傘を差しながら門をくぐり歩いてゆくと、老師様のお経を読む声と太皷の音が段々と大きく近づいて来る。何かお弔いをされているのだな、と思って尋ねると、茶筅供養であった。茶筌は無くとも参加が許され、その様子を拝見して後、塔婆や祭壇がある所へお参りさせて頂くことが出来た。美しく色付けされた太鼓や仏具を後に、静まり返った厳粛な空気の中を、見事なお衣装に包まれた僧侶の方々が列になって退席された。
 その後、本堂で不味流の茶席に入れて頂き、武家茶道の凛々しい御姿を茶室に感じつつ、心温まる一服を頂いた。受付においてあった珍しい二葉葵の花を始めて拝見し、予定になかった嬉しい体験に心弾みながら、お寺の中の参拝へと進んだ。

 松平不味といえば、茶道をたしなんでいる多くの方が存じ上げている、出雲の大名である。茶道界では名君としてその実績を認められ、今なお人気もある。
 大名でありながら、一畳台目中板という小さな部屋を好んだのはなぜか、実はいったいどのような方なのか・・・想いはどんどん膨らむばかり、この続きは次回にて。

令和7年4月26日 畑中香名子