松平不昧公の父、松平宗衍(むねのぶ)は、父親宣維(のぶずみ)の若死によって、3歳で六代藩主となった。17歳までは江戸で過ごし、19歳の時には、それまでの家老たちによる輪番制を廃止し、大胆な財政改革を行う。その背景には、風水害など相次ぐ天災地変による藩財政の困窮があった。宗衍は、収入を伸びてゆく商業資本から税収を得る方法で、支出は家臣の給禄をカットするなどして、革新的に収支を変化させようと試みた。しかし幕府の国役を課されたり、続く災害に苦しみ、財政は益々困難に。最終的には39歳で引退、七代藩主を17歳の治郷(はるさと)に譲る。後見役は朝日丹波茂保。彼が提唱した御立派(おたては)の改革は、藩を封建的収取体制に戻しつつ、深刻な財政難を何としても乗り越えるという意図で行われた。
治郷は幼名を鶴太郎、56歳で引退後に不味と称した。幼少期の治郷について、覚書によると、
「御若年の節には中々するどき御気質にておはしまし、俗にいふ善くゆけば妙々、悪しくゆけば大変といふ有様にて、君側の人々も非常に心配の趣云々」
と書かれている。少々やんちゃな性格があったようだ。心配した側役は、治郷若年の頃より茶の湯と禅を学ばせた。それが功を奏してか、良い方向へと歩み、後の大名茶人松平不味を生み出してゆく。
藩主としての不昧公がどのような人物だったか、歴史学の視点から見ている論文も多い。御立派の改革によって財政を立て直し、赤字から余剰金を持てるまでに逆転した背景には、徹底的な農民への増徴税があったと言われている。租税率は69パーセントと、他藩に比べても非常に高く厳しい税を課し、百姓からは絞れるだけ絞るという封建的政策から、領地内の広域な範囲で打ち壊しが起こった。民から得た余剰金で、治郷は大名物油屋肩衝を、千五百両のという大金で購入する。このようなことから、政治的に名君ではないという評価があるのも否めない。
一方で、治郷が仮に政治的名君ではなかったとしても、茶道史的には評価すべき点が非常に多いという主張もある。「文化というものは、それ自体が独自の価値を持っており、あがなわれた財源がどんな性質のものであっても、文化そのものの光を燦然と放つ」(藤沢秀晴『出雲の歴史』) 財源に係わらず、茶の湯文化や松江文化を守り、発展させることができたその才の価値や実力を、偉大な功績と認めているのである。
更に、乾隆明氏は「不味さんの時代の経済史」の中で、従来言われていた松江藩重税説の計算根拠に疑問を投げかけ、実態との相違を指摘、幕末における松江藩の財政力の本には治郷の藩政改革が大きく寄与していると論ずる。
また、藤岡大拙氏も次に様に語る。「治郷不味の茶の湯は、主として江戸において行われている。-中略-ここで注目したいのは、不味が松江に帰ってきたときの茶の湯への姿勢である。第一級の目利きとして、あらゆる名物名器を見てきた彼であるが、地元では江戸や京都の逸品のみを賞翫する態度が見られないことである。松江に帰れば松江の職人を育て、その作品を愛しているのである。焼物では楽山焼や布志名焼を愛用し、指物師小林如泥を愛し、漆工小島漆壺斎を重用した。如泥や二代土屋善四郎を江戸に呼び寄せて自慢したほどである。菓子や料理の職人も育っていった。」
茶の湯視点ではない研究者たちの不昧像を拝読し、新たに知るところがたくさんあった。さて、その上で、もう一度茶の湯視点で彼を見たらどのように見えるのか・・・
(参考『茶の湯春秋 不昧公展』)
令和7年5月26日 畑中香名子


