Posted by on 2025年12月25日 in 風の心
令和8年1月号 風の心

一言、
「美味しいっ」
と、中学生のS君が云った。それがなぜだか、胸に深く刺さった。薄茶を一口飲んだ直後の、ほんの一瞬の事だった。
「先生、私お湯を入れ過ぎました・・・」
と、追いかけるように中学生のRちゃんが言った。この瞬間に、子供たちの正直な赤心と、包み込むような自然体の温かさを、また感じさせて頂いたのである。

 最近何かの動画を見ていたら、誰かとても偉い方がおっしゃっていた。これからの世の中は、できるだけ自分の知らない世界に触れ、新しい刺激を受けることと、世代を超えた触れ合いを持ち、異なる価値観や感性を知ることが重要だと。恐らくこのようなことに取り組むと、「感じる」ことが「考える」ことへと導いてくれるのだろう。とても合理的に、的確に、AIを活用できる現代人にも、本当に人間らしい心を死守する手段として、茶の湯空間はとても有効だと考える。

 今週から各曜日の各クラスに於いて、お歳暮お返しの食事会が開かれている。今年は点茶盤で我々が濃茶を振る舞い、薄茶は一斉にお弟子さん各々で点てて頂き、お隣の方へ差し上げる形式をとった。中学生以下の子供クラスは、クリスマス風に綺麗に飾られたその茶室で、聞香を二種、そして大人と同じように全員で同時に薄茶を点てた。Rちゃんが点てたお茶は、S君に回された。そのS君が「美味しいっ」と言ったのである。
彼は男子3人兄弟の末っ子。お父様は曹洞宗の僧侶でいらっしゃる。彼がまだ小学二年生の頃、一日だけの親子体験教室に二人でお見えになり、坊ちゃんは翌月から入門された。初めて稽古に連れてこられた日に、「私も一緒に入門したいですよ」と照れながら笑ったお父様のお顔が印象的だった。二人のお兄さんは後を継がず、S君が僧侶になることを既にその時点で決めていた様子。本人もすんなりとそのように言っていたのは、何だか彼の上に天から仏さまが降りているかのようだった。
 しかしそれとは裏腹に、稽古は一筋縄にはいかなかった。比較的私には素直であったものの、他の先生には右手で取ってと言えばわざと左手で取る、こっちを向いてと言えばあっちを向いて笑っている。とにかくいう事をきかずに、他の男子もろともに茶室は体育館のようであった。「まあ、いいのいいの・・・」と育てること五年くらい、そんな彼も六年生頃から急に変化を見せ、大人になった。中学生の今では、あのタイミングで「美味しいっ」と言うのである。それは女の子の点てたお茶だったからかも知れないし、本当に美味しかったからかも知れないけれど、子供ながらに彼の心が自然とそう言わせたことに変わりはない。また、それを聞いて、お湯を入れ過ぎたことをすっと正直に話したRちゃんも純粋である。そしてそこに「和」が生まれる。

淡々斎の本の中に、次のような文面がある。

   また私の方の祖先であります仙叟居士は、戯れに菅公の御歌を引用いたしまして
    心だに誠の道にかなひなば
       習はずとても茶の湯なるらん
  と言いなされたことがあります。茶の湯というものは、心の誠を専らとして行なうべきものであるということを適切に説示された唯一の教訓であると存じます。

以前付箋を付けた、このページを再び開き、S君を想う。高校は駒澤高校を受験する予定の彼は、いつか遠くへ行ってしまうのだろう。「僕、世田谷の下宿から、稽古に来るから」と言ってくれる彼が、愛おしい。良き僧侶になることを願っている。そして既にその道を歩んでいる彼を心から尊敬している。

 こうして子供達から学び、AIに負けない豊かな人間の情や篤い心を養い、真っ直ぐな瞳に込められた言葉にできない想いを感じるのが、茶の湯なんだと、そう思うこの頃である。

令和7年12月19日 畑中香名子