雪の予報が聞こえると、思いを馳せる茶事がある。裏千家の茶人、名誉師範、石川県人の大島宗古氏。写真でしか知らない、図書の中でしかわからない、この方の雪の茶である。大島氏の筆のままで記せば、正客、御釜師宮崎寒雉老(十三代と思われる)、次客大樋窯大樋年雄君(現大樋長左衛門氏)、末客美術商平沢主人となっている。
一井庵(いっせいあん)で行われたその茶事は、明治9年1月20日午さがり、静やかに雪降る中、来沢中の裏千家十一代家元玄々斎宗匠と、加賀の茶人湯川宗俊宗匠とによって催された一客一亭の茶会を偲んで、行われている。ここに、大島氏の文章を紹介する。
明治8年10月、裏千家十一代玄々斎宗匠は流祖仙叟居士の二百回忌を墓所月心寺にて営むため金沢へ下向され、松原町の湯川宗俊宅に冬の三カ月間逗留された。湯川家は前田藩の重臣奥村家の御茶道堂であった。
此地には藩政初期より、裏・表・宗和・遠州など諸流の茶堂が代を重ねていたが、宗俊は明治維新後は、名器を愛蔵し数寄をたしなむ町人達の茶の湯指導にあたっていた。
さて、湯川家には母屋に八畳の「一井庵」と茶庭を隔てて四畳向切逆勝手の「直心庵」があった。
雪国の冬の日だちは速いもので、翌9年1月20日、訣別の前日となり、宗俊は「一客一亭の茶の湯」を一井庵で催すことにした。たぶん「飯後の茶の湯」だったろうと思われる。
今に残された宗俊の手控えを記せば、「一月二十日明日発足に付一井庵 掛物 一燈在判 松ノ画賛、 釜 利休所持 天猫 濡鷺、 香合 戴安道、 柱釘に花入 仙叟作写、 今度の土産 花所望 柳・こうじ、 水指 伝来 大樋雛形信楽蓋、 茶入 小川手、 袋 伊予簾、 茶碗 呉器、 茶杓 仙叟共筒 銘「櫂(かい)」宗柏女箱書、 白竹輪の蓋置、 塗り曲建水、 萩焼筆洗鉢、 菓子 饅頭」
私はこの手控えを幾度も読み返して、その日の茶会へ想いを馳せた。
床には八代一燈宗匠の「六十や また六十を 松の雪」が掛り、共に六十の齢をこえたご両人には一入の想いだったろう。ついで炉辺へ進めば宗俊秘蔵の利休伝来の濡鷺釜が寂しげに松風を奏していた。静かな雪の日の炭手前はまた格別で、湿やかな濡色の蒔灰が灰匙から炉中に落ちる幽(ひそ)かな音、清澄な雪の日の薫香・・・。
宗俊は花台に柳と「こうじ」をのせて、家元に花所望された。家元はこれを受けて、花をお生けになった。きっと中国の故事の再会を願う心をこめて、柳を綰(わがね)られたことであろう。
さて、宗俊の手控えには茶碗呉器とのみ記され、薄茶碗と薄器が書き留められていない。何故だろうか。おそらく小振りの濃茶碗はそのまま流用されたのであろう。
また、薄器は濃茶入の挽家が使われたと思いたい。このようにあれこれ想像される宗俊の手控えであるが、最後に
「今更に 名残りつきせず 一井に
底意へだてぬ やどを重ねて」
との玄々斎宗匠の別離の歌を記して会記は終わっている。
大島氏が手控えを読み、それを解釈されている部分を読むだけで、遠い明治の金沢の茶室に入ることが出来る。玄々斎は明治10年7月11日に没しているので、亡くなる一年半前の事である。互いの心の強い結び付と、別れを惜しむ濡れる想いを、言葉ではなく道具や柳に託して会話する。無言でも伝わる、無言だからこそ深い寂しさが伝わる、茶人らしい空間ではないだろうか。
次回はこのような古の茶事を偲んで、大島氏が行った「飯後の茶事」をご紹介したいと思う。
令和8年1月26日 畑中香名子


