木々の緑が一層深くなり始めた。五月雨と呼んでいいのか、しっとりと降り注ぐ雨の粒が、茶庭を静かに包み込んでいる。一方で忙しくてかまえない家の庭には、お陰様で雑草が元気にはびこり、どこかで草取りをやらねばと、毎朝、毎晩、玄関を出入りする際、呪文のように心でつぶやいている。
先月号にて、『茶道雑誌』の中の堀内宗心宗匠(十二代宗完 大正8年~平成27年)の文章をご紹介した。初風炉の時期の風情、風炉が基本であること、合理主義の茶の湯に於いて、意味と法則を理解・会得しないと行動力のある茶の湯ができないこと、などをそこから読み取った。
今回は、数冊しか持っていないこの月刊誌の、1989年8月号より抜粋したいと思う。私が仕事で行っていたスポーツの世界から引退し、大学を受験するために勉強していた頃、同時に裏千家に入門する頃の一冊である。
「茶道講座」(383)
堀 内 宗 完
風炉の炭(釜に水をつぐ場合)
茶の湯と稽古という言葉があります。前回末尾に、薄茶運び点前の中仕舞の説明の中で、中仕舞は茶の湯に好ましいことで、規矩厳正な稽古、例えば七事式の花月などには、水指の前に仕舞う本来の仕方が好ましい、とする川上不白の説などを引用いたしました。
稽古というのは修練であり、茶事をはじめ茶の湯というのは活用の場であります。活用は修練を尽くさなければ出来ないことでありますから、修練に修練を重ねることは大切であります。しかし、お茶は修練に止まるものではないのであります。活用の場に生き生きとして動くことの出来る生きた茶のあり方を身に付けることが更に大切なことなのであります。ここに先生方の指導法が一歩前進しなければならぬ、と私は考えています。
昔から、「守る」「破る」「離れる」という三つの段階が示されています。「守る」というのが修練の段階であります。更にこれを活用して生き生きと働きにあらわすところに「破る」という段階があります。しかし、その何れにも止まってはならぬというところから、「離れる」という更に一歩進んだ段階が生まれてこなければならぬのであります。
例えば席入りの仕方ひとつを見ても、茶室にはいろいろな形式があり、また広狭による違いがあります。例えば松風楼型の茶室を標準にとって席入りの仕方を習っても、その意味内容に通じなければ、すなわち「破る」ことが出来なければ、他の型の茶室の場合には対応することが出来ないのは当然であります。
花月の式を習うにしても、まず初歩の段階としては、札のとり方、折居の廻し方を習うことが必要でありますが、本当は、千変万化の札の出方に如何に対応してゆくか、という生きた花月に習熟することが大切であります。札の裏の記号を見て、型にはまった花月の形式を習っても、本当の花月を知った事にはなりません。
最後の花月については、おそらく、不白筆記にあるような、状況に合わせて臨機応変に動きを変える高度なやり方をおっしゃっているのだと拝察している。
以前このたよりにも書いたことがある。守破離について、先ず教本の通りにできなくては話にならない、これが「守」。次に様々な道具を使用すると、或いはその時の参加者の都合で、現場に合わせて変えて行う必要がある、これが「破」。更にもてなしの場所や目的、形態に合わせて、オリジナルの形を自分のお茶、その姿で組み立てる、これが「離」ではないかと。「守」が無ければ「破」に至らず、「破」が無ければ「離」には到達できない。
淡々斎宗匠も、『風興集』という教本を刊行された際、茶の湯の本質に触れておられる。そのお話はまた次回に・・・
令和8年5月28日 畑中香名子


