Posted by on 2022年05月27日 in 風の心
令和4年6月号 風の心

良寛さんの詩を読んだ。

花、無心にして蝶を招き

蝶、無心にして花を尋ぬ

花、開く時、蝶来り

蝶、来る時、花開く

吾れも亦人を知らず

人も亦吾れを知らず

知らずして帝の則に従う

花はただそこに花開き、蝶はただそこに舞う、他者がどうということもなく吾れはただそこに生きて、それは知らず知らずのうちに大自然の法則に従って巡っているだけである、と感じ取った。花も蝶も人も、生きるものすべてが、流れる雲や水のように自然体でそこに存在し、自然と調和している。他者によって助けられながらその中にいる、生かされていることそのものが、幸せなのだと考えたりする。

朝茶事の露地を歩きながら、身体に風を感じる。蹲の前で水を撒くと、湿った石に再び生が宿ったようにきらきらと輝きだす。その冷たい水を手に取ると、透き通る清らかな感触が、手から身体に伝わってくる。踏み石を一歩一歩進めば、朝露を含むひんやりとした空気の中で、木々のさわさわという音が、小川の水が石に当たって流れていく音が、耳に響く。

中門で額を上げると、向こうから歩み来て下さる正客、連客の姿が目に映る。程よい距離を保ちながら、目と目が合って一礼。頭を下げて下を向きながら、心は真っ直ぐ客のもとへ走る。有難いと、感じる瞬間である。今日ここに、こうして皆様と茶の時間を持てることに、深く感謝する瞬間である。

席に入っていただいた後、お一人お一人との挨拶によって、思いは更に強まる。どうかどうか、楽しんでいただけますようにと。

小さな釜に、大きな羽や火箸を使って炭手前をする。風炉中を見て頂くと、釜や風炉の可愛さ、炭の小ささに、皆様声を上げて喜ばれる。

飯台を持ち出してスタートする懐石は、禅僧の持鉢を使用する形で行い、今回ご飯は先ほどの小さな釜で、御粥を炊いて差し上げる。自分自身の空の椀を重ねて布巾に包み、それを持ち出す持鉢とは、「持鉢」「自鉢」「応量器」と宗派によって呼び方が変わる。茶道の場合は、臨済宗の「持鉢」が適していると思っている。朝茶事であること、飯台であることを考えると、朝粥と精進で、自然のままの料理を簡素にお出しするのが常であるが、お客様を早朝ご遠方からお招きしてのこと、また昨今の食事情を鑑みて、少し変化させている。豊かな現代だからこそ、このあたりの線引きは大変難しい。懐石の最後を締めくくる菓子も、茶事との調和、器との調和がものを言う。菓子を爽やかな朝の腰掛で召し上がっていただきたいと用意するも、後座を別席で準備したため、残念ながら叶わず。

しかし、コロナ対応として広間で食事をする初座、四畳半の薄暗い席で蝋燭の明かりを灯しての後座、この空間の切り替えもまた良しとしている。茶を差し上げる朝の一会は、自然光の陰影に包まれる茶室でこそ、感じるものがある。暗い床の間に光る白い花、徐々に明るくなる点前座、戸の外に広がる露地の艶やかさ、ありのままの自分・・・小さな風炉釜の横に選ばれた水指と茶入を、薄器を、そして茶を味わって頂けるように、自分はただそこにいるだけである。

利休様は、いつ始まっていつ終わったかわからないような点前を奨励したと聞き及ぶ。良寛さんの詩のように、「ただそこにいる」事が、ごく自然に、自分と自分以外のものとの調和を生む。茶の湯はそんな柔らかな、真に強い、しっかりと地に足の付いた心が裏側にあるような、日本の見事な文化なのだと思う。

令和4年5月26日 畑中香名子