七味から四味を取って三味だと、そう黒田先生はおっしゃった。もっともっと詳しくお話を伺っておけばよかったと、後の祭り。佐々木三味先生と直接お話をなさった、共に茶事をされていた黒田先生から、そのエピソードや逸話を伺うのが楽しかった。そんな三味先生の著書『お茶事』は、多くの方々が茶事を行う際のバイブルになっているのではないだろうか。
私は、昭和41年春3月に書かれた、その「あとがき」を、いつも読み返す。少し引用してみよう。
茶は茶事にあり―。
この言葉は、古来の鉄則である。もうすこしちがったいい方をすれば、帛紗さばきの初歩から、台子の奥儀に至るまでのいっさいが、ただ茶事を催すがための割稽古にほかならないのである。
茶事を知らずして、茶を語るなかれ―。
この真実を、今の茶人は忘れている。いろいろな社会情勢や、経済事情のために、茶人から茶事という根本が日に日に遠ざかりつつある。若い稽古人はもちろん、相当の先生方にしても、茶事の多くを知らないのが現状である。
それで、心ある人々に、すこしでも茶事のあり方を知ってもらおうとして著したのがこの本である。
中略
茶事に流儀・流派はない。また式作法もあるようでなく、ないようでもあり、その間に処して、括弧せられた生活を、芸術を、楽しむことがお茶事だといえる。
中略
この本が、忘れられつつあり、顧みられなくなりつつある「茶事」の、最後の記録として、昔はこんな茶事もあったのかと、一つの語り草になるであろうことを寂しく考えながら、この「あとがき」の筆をおく。
人々の茶事離れに危機感を感じ、少しでもそれを防ぐべく、ご自身の体験をもとに記された当時の茶事の姿である。
私の場合、本を開くたびに、これも出来ていない、これもまた出来ていないと、だんだん自信を無くす、というのが現状である。しかし、やりたいと思う気持ちは溢れ、こんな風にしたらどうだろうと考える時間は幸せである。そして実行する。お客様と共に過ごすその時間が、私を変え、育ててくれる。
毎月、黒田先生のご指導を賜りながら、何年間も様々な茶事を行って来た。その一つ一つの積み重ねが、様々な工夫が、もてなしを作り上げる力となり、論理的にも感覚的にも、こうあるべきという自分の価値観、哲学を作り上げた。それはまだまだ未熟で不十分、もっともっと茶事に呼んで呼ばれる経験を積まなくては何も言えない。
しかし、人が人をもてなすことを通じて、自分と向きあい、自分と闘う。相手の気持ちになって考え、自分の気持ちを同化する。いつか自然と、黙っていてもそこにいるだけで伝わるような、そんな空間を作れるようになれば良いと、力を抜く訓練をする。
教えの通りの各服点、本当に一つずつ仕上げる各服点、すべての茶碗に茶入れからお茶をくみ上げる原点の各服点・・・時に、道具に、人に合わせて、いつも壁を昇る。主客共に本当に楽しめる茶事が、自分との挑戦である茶の湯が、私は好きなのかも知れない。
令和4年6月23日 畑中香名子


