先月号よりの続き・・・
4月10日(月)お家元のご講話をお聞きした感激の朝礼の後、2階に降りてオリエンテーションが行われた。
その折に、仏道に身を置かれている千坂先生は、「茶は実践である、和敬清寂も実践で行わなければならない。」と説かれた。昭和25年、大学時代に嘉代子奥様からお茶をしなさいと誘われたこと、ご自分が初めて今日庵を訪れた時に、水の打たれた禅寺のような佇まいに環境の大切さを痛感し、良い環境に身を置いてその環境に和してゆくことが人間の成長につながる、そう思われた話をして下さった。
加えて「和敬清寂も事物人境が成り立って和とする。」とおっしゃられたが、その意味が解らず、寮に帰って必死に調べた。久松先生の心茶会によると、事物人境とは「ことがら」「もの」「人間」「環境/境地」の事。和敬清寂はたんに人間の、或いは人間の間における倫理的な法則に留まるべきものではない。それは、十全な意味においては事物人境における和敬清寂でなければならない。そう久松先生はおっしゃっている。和敬清寂は人と人との間でだけではなく、物事、環境、全てにおいて広域に実践できて初めてその意味を成すのだと、深夜に納得した。
オリエンテーションでは、「道学実」がいかに大切かも教えて下さった。学園には、
谷耕月老師の 「道」
立花大亀老師の 「学」
千宗室(現:千玄室大宗匠)お家元の 「実」
という文字が、一つずつ大きな額に入って掛けられている。茶の湯を学ぶとき、この三つのバランスがとれていなければならないという教えである。
「道」とは心の学びであり、自分以外の人から見える自分と、自分自身から見る自分、その両方が良くなっていかなくてはならない。
「学」とは知を耕すことであり、見て聞いて読んで調べて、自分の力で追及してゆくもの。学びの蓄積が、知識の深さ広さを作る。
「実」とは実践であり、物事を体験して自分で体感することによって、真意を知り現実を理解すること。体験して初めて自分のものになる。
そして千坂先生は次のように付け加えた。
「道」とは、
首(頭も含む)・・・くび
辶 ・・・突き進む
つまり首から突っ込んでいくことであるから、茶道とは茶に首から突っ込んでいくのだ。「一生懸命」とは、一生涯、命を懸けるようなということだから、研究科の間に命を懸けるような稽古をしなさい。
人間性茶道を、せねばならないではなく、せずにはおられない気持ちで行う。鍛練とは、稽古を千日すること、稽古を万日すること。松平不昧公は参勤交代の籠の中で、「帛紗、意の如くにならず」と三年かけて習得した。やろうという意欲があれば、いかようにも学ぶことができる。
入学して4日目、生ぬるい気持ちでこの貴重な環境にいられては困ると、常に最善を尽くすように努力を惜しむなと、気合を入れて下さった。
翌日もオリエンテーションが続き、担任の業躰先生よりお話があった。
「君たちは此処で何を身に着けるのか。」技術、宗家での在り方、プロ意識、生活文化である茶道、ものの見方・・・
過去をしっかり見て今を正す、それが歴史を学ぶ意味である。きめ細かさが心遣いの深さとなるから、日々感じる心を養うことが大切。多くの体験をすることがものを知ることに繋がる。人には優しく自分には厳しく。
そして割稽古は毎日復習し、点前は予習をして稽古に向かうこと。燃えている時に火をつける、自分の力で火をつける。糸口をつかむように努力し続けていると、ぽっと火が付き燃え盛る。足袋から血が出るほど稽古しなさい。
このような熱き思いで、私たちの学校生活は始まっていった。
この続きは来月に・・・
令和4年11月23日 畑中香名子


