暫くの間、裏千家学園で学んだ日々を振り返って来た。日記というものは、そのページをめくる度に、時を超えて古の時間にわが身を置く手助けをしてくれる。その時の光、香り、肌に受けた風を感じさせてくれる。心の動きや感情を思い起こさせてくれる。単なる記録としての文字ではない、不思議な力を持っている。
そういえば3月だったろうか、御家元がおっしゃった。「一日一日を五百年重ねて来た」と。この言葉は、妙に心に深く入って来た。そうだ、確かに一日一日を重ねて来たのだ、五百年も前から、ずっと。この日記を一ページずつめくるように、茶の湯は大変な、或いは豊かな、或いは寂しい、或いは輝かしい毎日を積み重ねたからこそ、今ここにある。途中でその積み重ねが途絶えていたら、今には繋がっていない。これから先も繋いでいかなければ、未来には存在し得ない。伝統を受け継ぎ守ることは並大抵のことではないけれど、一日一日なのだと、教えて下さった
この時にもう一つ、「茶の湯は人のことを考えるもの」とも伺った。飲みまわしも各服も、その場の状況で各人が判断してゆくべきであるというご意向をお話しされた際の一言だった。本当に、そうだと思った。相手の事を考える、その方の事を思う。そうして招く人と招かれる人、主客が互いに相手の気持ちを汲み取って成り立っている。そこに心からの一体感、言葉のいらない、いい空間が生まれる。
この日、大宗匠のお話は次のようなものだった。日本人はたたむ文化、外国人は吊るす文化。なるほど、私たちは脱いだ服をたたんでおくが、外国ではハンガーに掛ける。吊るしている。直線的な着物をたたむのと、立体的な服を吊るすのと、着ている服の構造、その歴史からくる習慣の違いかも知れないが、妙に納得してしまった。床の間、茶の間、間取り、というように間(ま)の文化でもある。また節目を大切にする、節(せち)の文化でもあるのだと。このように、日本文化の特徴をお話下さった。民族の起こりや生きるための生活環境、自然環境が織りなすこのような文化的特性に、改めて視点を当てて認識、熟考することが、非常に興味深かった。もしも諸外国にこのような間(ま)とか節(せち)という概念がない場合、それを説明するのは難しいことだな、などと考えていた。
その日、帰りの新幹線で思い出していた。随分昔は、刀掛けに刀と扇を置いて、何も持たずに躙り口から席入をしていた。後に扇を持って入るようになっていく。このことを知ったのは、古文書の勉強をしていた頃だった。茶室の中では結界も不要であったのだと、その時に気付いたのを覚えている。
茶の空間で、相手の事を考えている真実の主客には、扇の結界なんていらない。もともと間(ま)の文化を持つ我々日本人は、相手とのあいだに心地よい距離感をもっているため、それを遮る扇の結界は必要なかった。そう改めて自覚しながら、車窓に流れてゆくのどかな山々、輝く緑を見つめていたのだった。
令和5年8月24日 畑中香名子


