故鈴木宗康先生は、私が桐陰席で茶事の亭主をさせて頂いた時の、指導担当だった。裏千家学園、研究科時代の事である。平成7年7月、七夕の趣向で道具組を行い、熱い夏に大きな氷を用意して木地の浅い桶に入れ、露地に置いたことを覚えている。
先生はお菓子の専門家で、ある夜その大きなお屋敷へ事前にご相談に伺った。立派なお部屋の見事なちゃぶ台でお茶を頂きながら、茶事のお話をさせて頂いた。三人で伺ったにもかかわらず、ゆっくりと話を聞いて下さり、お優しい口調で何が大切なのかを教えて下さった。ここ桐陰席で研究科生として行う茶事とはどうあるべきか、深く考えた。
もう30年も前の事で、細かいことは全く覚えていない。唯一記憶に深く残っているのは、薄茶になって初めて、なぜか半東に取次ぎを頼んだら、席中客に入っていたロシア人のアレックスが後に私に言った言葉だ。「澁谷さん、なぜあそこから半東を出したのですか。半東は出るべきではなかったし、客も立って茶碗を取りに行きたかった。茶事の最後でみんな足が痛かったから。」と。そう、半東は客に姿を見せない立場であるのに、なぜ私はあの時半東に取次ぎを頼んだのだろう・・・何か理由はあったのだろうけれど、今も思い出せない
先生の文章に次のようなものがある。
菓子の現在の姿が一般に見られるようになったのは最近のことであるから、製菓になっていろいろの新しいものが考えられているが、自然の味ほど楽しいものはない。どこからこのような良い味が生まれてくるのかと考えさせられるような時もある。
昔利休居士の食味通なことは『雲萍雑誌』に伝えられる。飛喜百翁と利休の話であるが、「利休が招かれた時、西瓜に砂糖をかけて出されると、利休は砂糖のないところを食べて帰られ、門人に向かって、百翁は人に饗応することを知らず、私達に砂糖をかけた西瓜を出したが、西瓜は西瓜の美味を持っているものだと言われた」と伝えられていることを見ても、一事が万事として推察することができる。西瓜が初めて渡来したのも、また砂糖が輸入されたのも戦国末期であるから、新渡りの高級品として、無上の御馳走であったに違いない。
食味の核心をつかんだことで無益の贅沢を否定された、利休居士の素晴らしさは、茶菓子を使うにも心得ねばならない話である。だが自然の味といっても、小豆一粒にも、穀物にも良質の品を選ばなくてはならず、一個の菓子にしても味わうべきものなのである。(中略)
わが家では母が節分の豆を生かして石臼でひいて粉として落雁の香り高い干菓子を作った。清水坂で陶器の菓子型を買い求め、夏になると楓の型や渦の型に葛を流して作る手作りの味をもっていたことはやはり、生活の中に茶があったのである。
こうして読んでみると、先生をとても懐かしく思う。折に触れて貴重なお言葉をいくつも頂いた。それが今の自分の財産でもある
茶事の中立で、腰掛に置いてあった短冊に、先生が書いて下さった。
老いたりと 姫に会ひたき 願いあり
宗康 (花押)
先生のありのままのお姿は、何よりもお手本になっている。
令和6年11月26日 畑中香名子


