Posted by on 2017年12月19日 in 風の心
平成30年1月号 風の心

尊敬する和尚様とお話をしていた。床の間には、鈴木大拙博士が「独坐大雄峰」と書かれたお軸が掛っている。さっきまでしとしとと雪交じりの冷たい雨が降っていたのに、急に光が差してきた。古くなった白い壁に生まれた陰と陽の陰影が、その言葉を一層深く響かせている。実はあがり症で人見知りの私が、何故か和尚様といると自然体のまま、ただの自分でいられる。それは、誠の道場であるこのお寺に居るからだろうか。大拙博士は、どのようなお気持ちでこの字を書かれたのだろう、と考えていた。
鈴木大拙博士は親友の西田幾多郎氏に、「かかる世に何を楽しみにして生きるか」と問い、幾多郎氏は「呼吸するも快楽なり」と答えた、というエピソードがある。まさにこの問答が、この言葉ではないだろうか。

「独坐大雄峰」は『碧巌録』第二十六則にある、百丈懐海(720‐814)禅師の言葉。唐の時代、江西省南昌府の百丈山で住職をした禅師は、「百丈清規」という、禅門の人事から食事の作法に至る迄の規律を制定し、今日の禅宗道場に於ける修行の基礎を定めた。

ある修行僧が禅師に問う。
「如何なるか是れ奇特の事(この世で最高に優れた有難いことは何ですか)」
丈云く。
「独坐大雄峰(今こうしてここに座っていることです)」

「独」は孤独という事だけではなく、自分自身の存在全てということ。「坐」は坐禅であると共に、日常のあらゆる行いが皆修行になっている様子。「大雄峰」は、百丈山の別名。自分自身の精一杯を尽くして、日常の全てを修行として行い、ここ百丈山に存在していることが、最も尊い有難いことであると、百丈禅師は答えたのだろうか。

和尚様が言った。お寺の軸を鑑賞するときは、ガラスケースの中に所狭しと何本も並べ立てて押し込み、何百人何千人来場と競うものではない。一つの部屋には一つの床の間があり、そこに一本の軸があるものだと。
その時、寺院の持ち物というのは個の美術品として鑑賞するものではなく、そこから教えを学び、或は考え、気付くための拝見物であり、それはまさに誠のお寺の一部なのだと思った。考えてみれば、現在多くのお寺が道場ではなく、拝観という言葉を使った鑑賞物になっているのと同じく、寺院所有の美術品の多くが鑑賞用として、芸術作品として味わうことを目的に展示されている。我々はそこに並び、列を作って押し合い圧し合い、心の中では見えないなあと嘆きつつ見ることが出来てもどれだけその展示物の事を理解して通り過ぎているだろうか。ことに寺院の持ち物を拝見する時、これはおかしい事だと気付かされた。

その部屋で、たった一本の軸と出会った。筆の流れから想像する染筆者のお人柄、紙や墨の色を見て時代を想い、文字の意味と表具の雰囲気とのバランスを感じる。光の様子で軸が変わる生きた姿を味わって、その言葉から何が大切なのかを学ぶ。鑑賞でいいものと、拝見するものは違う。お寺を後に、水の打ってある石畳を歩きながら、自分たちが一体何をやっているのか、もう一度考え直さなければいけないと思っていた。

平成29年12月15日 畑中香名子