Posted by on 2014年08月23日 in 風の心

(先月からの続き)
たくさんの方々が、当時大宗匠と呼ばれていた淡々斎宗匠への想いを綴っている。皆その偉大さと、情の深さと、無言の教えに感謝する。
  死にきって 不滅の人となりてこそ 久遠に今日の 庵主ならまし
                           久松 真一
  君逝きて 茶室は残る今出川 清き流れの 絶ゆる時無く
                           川田 順

師父仰慕』と題して、当時の先生方もその心情を様々な言葉にしている。
「・・・大宗匠の数少ない叱咤の中で、私がもっとも心に残るものは、我々若い者の精神の中に親切心の欠けることを、めったに人をにらみつけるということのない大宗匠が大きく目をみひらかれ、叱咤一言、「・・・そのくらいの親切気があってもいいはずじゃないか!」

親切な心、なんでもないようなことだが、この言葉は、そのときの私の心に深くつきささり、そのことの意味の大きさをあまりに強く感じたために、そのお叱りの意味のあまりに大きいために、その時の私の手抜かりを深くお詫びしたのは覚えていますが、どのような失敗をしたのか記憶がないほどです。

懈怠比丘不期明日、ことに明日に仕事を残すことのお嫌いであった大宗匠は、やりかけられると納得のゆくところまでやり終えないとお気のすまぬお方でした。周りからお身大事と気を使ってもご自身お気持ちが納まるまでがんばるお方でした。そしてお心の清いお方でした。邪気のないお人柄でした。想い起こすことは数々あれど、皆美しきことのみ。  

今後共、大宗匠のご意志を心にとどめ、その血と心を受け継がれたる鵬雲斎宗匠を中心として奮起一番、この道をもって日本の発展のために、日本、本来の人造りのために、あくまでも精進することが、大宗匠のご意向であり、残された、我々の使命でありましょう。」

この様な宗匠が家元を継承された当時を、井口海仙氏の言葉でまとめてみる。 

大正12年4月淡々斎に長男出生、円能斎が「政興」と命名(後の宗興宗匠、現鵬雲斎大宗匠である)。5月には平安神宮で、円能斎52回の誕生日、淡々斎一男を得た祝福、淡々斎家督継承披露等の園遊会が行われた。大正13年5月には香港、上海方面へ出張、6月に無事帰京。8月5日、享年53歳で父円能斎逝去。淡々斎は、通夜に参列した社中代表に「若輩ながら裏千家十四代家元を継承するにあたって、社中諸氏の後援と厚誼とを得て、亡父の築いた今日の盛況を益々向上発展させてほしい」という意味の声涙ともに下がる挨拶をし、一同に深い感銘を与えた。時に32歳。

その後戦争時は、
「戦況が深刻となってくると、次男嘉治も応召、若い業躰たちも次から次へと戦場に送られて、家元を護る者は、淡々斎と従兄弟の菊池了也の二人。業躰は寺西宗楽、伊藤宗典などの老人であった。幾度か利休像その他の疎開をすすめたが、淡々斎はかたく信ずるところがあってか、それを聞かなかった。「先祖からお預かりしたものとともに死ねば本望である。」というのが、淡々斎の覚悟だったようである。」

激動する時代の中で継承の重荷を背負い、戦時にあっても不動の心を貫き、日本中世界中の方から惜しまれた淡々斎宗匠に、学ぶことばかりである。

平成26年8月20日 畑中香名子

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