Posted by on 2016年09月12日 in 風の心
平成28年10月号 風の心

(前号からの続き)

そう、戻ってきたのである。再び私達とのお茶の世界へ。それも自分の力で。確かに、二度の手術から、まだ完全には立ち直っていないかも知れない。八風に向かって行こうと、そう自分に言い聞かせることが今の彼女を支えているとしたら、まだまだ不安定だということである。しかし、テーブルと椅子を使って、立派に茶箱の点前で一服点てて下さった。美大を卒業した彼女の手作りの茶碗も使われ、茶杓は「若蛙」=若返る、と洒落た締めくくりもお見事。途中は仲間がお運びや点前を引き受けて協力したけれども、最後の挨拶に出た時の彼女には、こみあげる思いがあった。潤んだ瞳は、真っ直ぐ前を向いていたのである。

一生懸命に趣向を凝らし、道具組や献立を考えたと思う。足の悪い状態でどうもてなすか、茶事の流れや人の役割を工夫したと思う。部屋をどのように使い、導線をどう取るか、動きを上手に組み立てたと思う。この場所で、この時だからこそ、このメンバーでしか出来ない茶事であった。まさに一期一会、自然体の心のこもった、本物の通じ合いだった。

先の禅語に近いものに、次のような言葉がある。

  風吹不動天邊月 雪壓難摧礀底松

          (風吹けども動ぜず天辺の月 雪圧せども摧け難し礀底の松)

雲は風のままに吹き動かされるが、天上の月は強風にもじっと動かない。雑木などは積雪に押しつぶされることはあっても、多年の間、もみにもまれて深く谷底に生い立った松は、それくらいのことにビクともしない。どんなことにも動かされない確固たる信念、どんな困難に遭遇してもくじけない心を、「月」や「松」で表している。また、この「月」や「松」を仏性(生まれながらにして具有している尊厳な人格)にたとえ、「風」や「雪」を煩悩妄想にたとえて、仏性が煩悩に左右され汚されるものでは決してないという意味にも解釈される。「風」や「雪」は実に手ごわい相手である。何度も何度も私達を、押しつぶそうと、惑わそうとして来る。しかし、「月」や「松」のような仏性は万人の下にある。そう考えると、立ち向かってゆく自信が湧いてくる。

精一杯人と真剣に向き合う、他者の事を考えることで、わかることがたくさんある。心の動きを知ることで、学ぶことがたくさんある。それらが自分を知ることになる。利他とは、そういうものである。
近頃は、電車の中も学校も、お寺の中ですら、電子機器と向き合う人ばかり。人が人を視界に入れる事が大幅に減っている現代、目を見て感じる感性はなかなか養われない。他者を思わず、物を介してしかコミュニケイション出来ない人間関係を危惧する。スポーツや茶の湯の役割は大きい。

今回お話した大切なお弟子さんを始め、たくさんの素晴らしいお社中の方々に囲まれて、常々多くを学び、考えるきっかけを頂いている。稽古場は、私自身の道場であり、ただただ皆さんに感謝したい。更にまた、そうした事に後押しされて、前を向いて歩む気持ちを新たにするこの頃である。

平成28年8月31日  畑中 香名子