(最終章 渡辺和子氏のお話は、5月の予告号にて記載します。)
今年も梅見の茶事が終わった。ひととき手入れの為に短く切ってしまった枝垂れ梅の枝は、年々長く伸びていて、今年はその揺れる花の間を優しい風が通り抜けた。6日間にわたって皆様と心和む瞬間を味わうことが出来、笑みあり、思考あり、交わりあり、嬉しい日々であった。
初日、一日中天気も良く、満開の梅が良く香る。6人分の縁高の手際よい出し方を考えながら終えた初座、小間の空間で外の水音を聞きながら過ごす幸せを、お客様と話した。あまり暖かかった為、朝の迎付では出していた湯桶も中立では出さず、流れる川の水が日の光に照らされてきらきらと輝く中の後入となった。建水を持って点前座に座る。柄杓を構える。背筋が伸びるこの瞬間は、力を抜いてしかし心を込めて、時が止まる。合に少しだけ目を向けるために、かすかに瞼が上がる。蓋置を畳に置く。柄杓を引こうとしたその瞬間、水音が耳に飛び込んできた。脳裏に光る水が映ったその時、音をたてることを許されないその場面で、柄杓の合が当たる音をたてた。総礼。礼の間、たててしまったその音が、後悔の波のように胸に響いていた。盆点というこの点前が静かに始まることは、何年も繰り返し繰り返し行ってきているのに、一瞬の心の動きによって、身に付いていない自分が堂々と現れた。
茶席では、たてる音とたててはいけない音がある。自然に発生する音と、意図的に起こす音がある。この意図的に起こす音が意図的でなくなるまで、修業は続くのである。更に、そうして生まれた自然に発生する音を消せるようになるまで、再び修業が続くのである。
2日目、それは雪の空気で始まった。寒くて寒くて、熱燗を二本に変えた。懐石の途中で降り始めた雪は、中立に笠を必要とした。柄のないこの路地笠を使えるのは、今や茶の湯の世界だけではないかと、貴重に思う。滑らないように足元に気を付けながら、路地笠を使う連客。風情のある姿で歩くお客様に何事もないようにと心配しながら、そっと陰で見届ける。暫くして、周り縁の廊下で銅鑼の音を聞いて頂く。皆様の目線は、外の庭に降りそそぐ雪。その後温かいお手拭きを使って、順次後入りとなった。
3三日目、濃茶が終わり動座して薄茶へ。六畳の大炉にはたくさんの炭が入り、寒雲棚のもとで新渡の水指が、物を言いたそうに鎮座した。本勝手の点前で一碗が出る。和やかな会話の中に、ふと急に雪が落ち始めた。今日の雪は昨日と違って小さく細かく、外の厳しい寒さを忘れる程、穏やかに美しく降りる。感動する。
4日目、木々に残る雪に日が差して、白い光を放ちながら輝く。そんな景色を眺めながらの席入りは、人の心をわくわくさせる。溶けた雪が水になって、深軒からぽたぽたと落ちる。急遽笠を使って、上手に回避する策を練った。「空とは則佛 水結びて氷となる如く、氷を離れて水なし」そんなことを思い出している場合ではない。急ぐ。
5日目、昨日同様、日曜日であったせいか、お勤めの方々が多くお越し下さった。貴重なお休みの日に茶事を味わって下さることに、有り難く感謝しないではいられなかった。喜びの思いが、会話をはずませる。新しい一歩を踏み出したような心持ちで、再び茶事の中に溶け込んでゆく主客一如。
6日目、力強い、今筆が動いているかの様なその軸を、本席に掛ける。寄付は九条尚忠より精中号を頂いて、茶色の帛紗を打ち捌いた五十歳の玄々斎消息。そのお心を大龍和尚「枯木再生花」で表現した。軸前で松風の音をたてるのは、一燈宗匠の酉年の釜。二人の会話が、聞こえてくるような気がした。
今年は今年の、梅見の茶事であった。自然体の時間が、ゆっくりと流れた。反省も発見も、感動も喜びも、人と人の交わりの中で温かく育まれている。
平成29年3月7日 畑中香名子


