Posted by on 2020年08月31日 in 風の心
令和2年9月号 風の心

日本という国名は、太陽に由来するという。生命、命が存在できるのは太陽があるから、その恵みがあるから、太陽のお陰様で、という発想から、「日の本」「日が本」という言葉が生まれた。わたくしたちの命は太陽が元、その根源であるとされたこの言葉が、やがて「日本」という国名になる。正月には初日の出を拝む。山に登れば日の出に手を合わせる。朝、昇ってくる太陽に、今日一日の無事と発展を願う。太陽のように大きく丸く、明るく輝きながら、その恵みに感謝して生きるのが日本人である。

嘉永六年(1853) 6月3日、アメリカのペリー一行が黒船に乗り浦賀湾に現れ、徳川幕府に開国を求めた。突然湾に停泊した大型蒸気軍艦四艦が、風の力でなく蒸気の力で進むことを、そこにたなびく星条旗の意味を、当時の日本人は知らなかった。驚きと困惑が日本全土に広がり、京都ではその様子が和歌に詠まれていたほどである。長い長い鎖国をやめて国を開き、通商や交易を行って、互いの利を求めるという要望を迫られた時、即決することが不可能だった幕府は、翌春まで時間をもらった。その時にペリーが言い残した言葉に、次のようなものがあった。「わが国の船の周りに、たくさんの小さな日本の船が寄って来るが、旗をつけていない。ナショナル・フラッグ(国旗)をつけていない船はどこの国ともわからないため、大砲を打ち込んでよいことになっている。来年来るまでに、日本の船には国旗をつけておくように。」

幕府は船に国旗を掲げる決議をする。薩摩藩主、島津斉彬(しまづなりあきら)(1809~1858)は、国旗を作るように願い出て、桜島に上がる朝日をもとに、日本人が古来より命の恩として大切にしてきた太陽を、その「日の丸」に日本の将来を託して、これを船印とすることを幕府に提案する。しかし、幕府内の多くの重役が、白地の中央に黒の横一文字をあしらった、「中黒」を用いようという強硬論を展開した。これは後に、「日の丸」か「中黒」かという大議論に発展、水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)(1800~1860)が太古から多くの国民が親しんできた「日の丸」にするよう申し渡しても、幕府の考えは変わらなかった。そうこうしているうちに、安政元年(1854)、注文していた日本最初の大船がオランダから到着し、ナショナル・フラッグをつけることが急がれた。国民の間では、「中黒」では暗い感じがして「日の丸」の方がよいという風潮も広がり、海防参与である徳川斉昭はその命として、日本の総旗印は「日の丸」にするとの決定を下す。これにより、幕府は「中黒」の希望を撤回し、7月9日老中阿部正弘が目付へ達しを渡し、同11日、日本のナショナル・フラッグは「日の丸」となったことを世に布告した。「日本総旗印ハ、白地に日ノ丸幟相用ヒ候フ様」という内容であった。

日本の旗印が太陽の「日の丸」と決まり、ナショナル・フラッグとして船の上にはためいた後、この国旗は遣米使節団と共にアメリカ大陸へと渡っていく。この国旗の旅については、次回に筆を譲ろうと思う。

日本人は太陽と深い結びつきがある。太陽を敬う発想は、自然を敬う考え方に発展し、四季の移ろい豊かな国土に魅せられ、生物全てを大切に想う、慈しむ心が育まれる。そこにはいつも、感謝の念がある。そんな場所で、そんな風に歩んできたのが、日本人である。我々の民族性の中にある、「尊い思想」を、もう一度思い出してみたい。そうすることで現在のこのような世の中に、小さなともし火が、細い細い光が、さしてくるような気がするのである。

令和2年8月25日 畑中香名子