久しぶりに書棚から『美しい日本の私』を手に取った。梅見の茶事を終えて、様々な想いや考えが自然と巡り、心が勝手にこの本を欲した。内容は異なるかも知れないが、以前にも本書を取り上げて筆を執ったような気がする。そのくらいこの文章は私の中に入り込み、そして残る。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり
道元禅師(1200 – 1253)は、永平寺の夜空を眺めて、そこにある自然を詠んだ。「本来面目」と題し、人間が持つ分別や作為、そんなものは到底相手にしない威風堂々たる大自然をそのまま言葉にすることで、すべての人が本来持っているあるがままの姿、あるがままの心を表したのか。
そして五百年後、道元の教えを学んだ良寛(1758 – 1831)は、辞世の句を求められて、
形身とて 何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉
と詠むのである。五百年経っても、人の心の終着点は変わらない。二人の高僧が求める修行の目標は同じだったのか。この歌には永遠の真理を見つけることができ、そこへなかなか到達し得ない、あるがままになることができない難しさを、現実のものと感じさせる。
梅を見上げていた。水の流れる音が、静かに身体に入ってくる。花笠のように丸く、白く、柔らかく佇む枝垂れ梅の中で、青い空を見つめた。ふっと梅が香る、その瞬間に「春は花」という言葉が思い出された。皆様到着前のことだった。
茶事が始まって、挨拶の後前茶、初炭、そして懐石。洞庫を使用して洗い米や野菜、鍋を取り出すと、ふと鳥が元気に囀る。どうやら水に、梅に、訪ねて来たらしい。障子越しにも関わらず、すぐ近くにその姿を見るかのよう生き生きとした声が響くと、「夏ほととぎす」と心中で呟いた。
日が暮れて、蠟燭のあかりの中で点前を始めた。しんと静まり返った空気の中で、帛紗の音、釜の鳴り、湯の落ちる姿が揺れる光と一体化する。目に映るのはただ目前の茶碗と茶筅。全く見えないものの、練っている緑の抹茶に、何だか一人吸い込まれていくような。そんなことを考えて動かしていた茶筅にすっと灯火が覗くとき、「秋は月」といいたくなるような光が輝く。
茶事の終盤、火が落ちて少し寒さを感じる部屋で、「冬 雪さえて 冷(すず)しかりけり」と自分で納得しながら止め炭の炮烙を持ち入る。その工夫をひとしきり炉辺で語り合い、炉中に残されたオレンジ色に黒々とした新しい炭の影が重なる。ぱちぱちと音がすると、急に温かくなったような気がして、香のかおりは炉辺から人を離さない。
最近は点前中に独りぼっちになる。主客という二元の「陰」の世界では、常に客を意識しているのに、いつの間にか一如という一元の「陽」となったかのように、そう勝手に思い込んで、自分が消えていくような無に近い気持ちになる。そんなときはたいてい、今は亡き、ご教授頂いた多くの素晴らしい先生方がそこにいる。感謝の気持ちが一杯に溢れている。
令和4年3月1日 畑中香名子


