さて、日記の続きを見よう。献茶式に参列した時のことだ。
6月5日 建仁寺献茶式参列 印象的だったこと
- 和太鼓の音
- 雅楽
- 赤い靴
- 天目供え
- 四ツ頭のようなポットで湯
- 袈裟を敷いて頭を下げる
今となっては何の事だかよくわからない(笑)が、きっと当時の私の目には印象的だったのだと思う。和太鼓の大きな音や雅楽が鳴り響き、赤い靴を履いた僧侶の方々が四ツ頭の時のようなポットで湯を入れ、天目を供え、供える時には袈裟を敷いて頭を地面につけて礼をする・・・という状況だったのか。いつか再び建仁寺の献茶式に参列し、もう一度その姿を見てみたいと強く願う。
この日は続いて〈後藤先生の点前〉と題して
- 茶碗の拭き方
- 切り柄杓から次へ移る時の手の流れ
との記載がある。先生の、淡々としているのに深みのあるお茶碗の拭き方や、その手の行方へ移る時の優しい美しさが、私の心に焼き付いたのだと思う。こうして考えていると、思い出は甦り記憶が錯綜する。
続いて茶席の掛け軸を記録している。
〈待合〉
白雲深處金龍躍
はくうんふかきところ きんりゅうおどる
碧波心裏玉兎驚
へきはしんり ぎょくとおどろく
碧巌録からの禅語である。金龍は太陽、玉兎は月を表している。白雲の深いところに金の龍が躍動し、みどりの波立つ心の中で月の兎が驚いている。芳賀幸四郎先生は次のように解説する。
「この二句の意味は、風穴や宗峰の用例から推すと
さりげない問答の背後に甚深な魂胆があり、その働きはまことに端倪すべからず、何とも見事だ
ということである。」
毎度のことではあるが、芳賀先生は常に語彙が幅広く、頑張ってついていかないと理解が追い付かない。何となく前述した後藤先生の点前の印象と言葉が重なる。さりげない中に真実があるような、山から水のほとりまで万象の壮大で見きれないさまといったところか。
〈本席〉
万法帰一 一帰何処
ばんぽういつにかえす
いついずれのところにかきする
同じく碧巌録から、ある僧と趙州和尚の問答である。僧が趙州に問う、「あらゆる現象は一に帰結します。一はどこに帰結するのですか」。趙州、「私は青州で、麻のひとえの衣を仕立てた。重さ七斤」。???どのような意味だろう?と思ってしまう。
円覚寺、横田南嶺和尚様がわかりやすく説いている。万法とは、神羅万象、山川草木目に見えるすべてのもの、般若心経の「色」、有と無でいえば「有」、個々別々の個体としての生命。
一とは、平等の世界であり、自性、主人公、仏性であり、般若心経の「空」、有と無でいえば「無」、目に見えないひとつながりになった大いなる命。
修行をすると一度分別はなくなり無になる。その無になった後はどこへ行くのかと問うと、再び有、差別の世界に帰ると趙州は言う。法衣を新調し、その重さを計る、さらには喫茶炊飯、運水搬柴、起居のすべて、日常動作に帰り、そこに一度無になった姿が現れる。こだわり、とらわれ、かたよりが無くなった日常になる。
献茶式では、多くを学んだ。初めて見聞きすること、点前、禅語・・・計り知れない肥しに溢れていた。
令和5年5月17日 畑中香名子


