先日、日本を背負って立つ、ある若い方々への茶道研修が終了した。毎回毎回、こちらが学ばせていただくような思いで、共に貴重な時間を過ごしている。
その中で、明治以前の、まだ文明の乏しい古の時代には五感、ないし第六感が、命に係わるほどに大切であったこと、必然的にそれらがかなり鋭く磨かれていたことをお話した。
視覚はどうであろう。薄暗い茶室で行われた茶事の中で茶入を見、仕覆を見、それを後に絵に起こす。その図が今日まで残っており、実物とほぼ同寸の記録として、美術館に飾られることがある。江戸期の絵図などを拝見すると、植物や昆虫、自然の造形の、かなり詳細な部分まで描かれていることに驚く。浮世絵を見て、その波の動きに、カメラやビデオの静止画像もないのに、なぜこのような瞬間をとらえることが出来たのかと、考えさせられる。
味覚。七事式の茶カフキは、最も多い時で試み茶を四服、本茶を五服用意した。このお茶を当てるのは、驚異的な確率となる。それにチャレンジしていたことを考えると、当時の方々の味覚は、今の味覚とは全く比べ物にならない。当然のことながら冷蔵庫もない、賞味期限の書かれていない食べ物を、どう管理してどのように頂くか。朝取って来た魚、作られた豆腐、その時は安全に食べられたとしても、保管は難しい。一日二食だったとはいえ、気候不順の折や雨の続くとき、暑い夏などは、中毒やカビなどの害もかなり起こり得る。自宅で物を食べる以上に、よその場所で出されたものを食したり飲んだりする時のリスクは、非常に高い。
嗅覚も同じこと。匂いによって食材の痛みを判断することも多かったと考えられる。また、古来より日本では香道が盛んに行われてきた。五味と六国を聞き当てることの難しさは、多くの香道に係わる方々を始め、茶道人にも理解できると思う。当てるためには、環境も整え、心も整える。現代の生活では、香水やアロマのように強い香りを聞き当てることはできても、繊細な香木のささやかな香りの違いには、向き合うことすらないのである。
触覚は・・・。日本の物の多くは、木と紙でできていた。たいていの場合、木や紙ごとに触った感触が異なる、強さが異なることを、人は知っていて、目的に合った材料を選ぶ。それは建築でも、棚でも、筆のような道具でも、また障子やふすま紙、書を書く紙も、手の感触によって判断される。また衣類などの布も、手触りや肌触りが重要で、手によって多くの情報を得ることができる。
そして聴覚。茶室には様々な音がある。客がそろったことで閉める戸の音。襖の開く音、畳を足袋が擦る音。水を撒く音、湯の落ちる音、茶筅が振られる音。銅鑼や喚鐘の音・・・音は人の気配も知らせてくれる大切なもの。此処で先月に続く、宮城道雄の言葉を紹介する。
「私がいつも面白く思うのは、音によってその物その物の形を感じることであって、自分が日々手にする茶碗などでも、それを膳の上に伏せたときの音によって、丸みのある深い茶碗か、平たい茶碗かが分かる。湯呑にしても、その焼きの具合や縁の厚み薄さ、それに重さなども膳へ置いた音で判じられる。皿の類も西洋皿の音、小皿の音、その他鉢の音や盃、硝子のコップその他、いろいろの食器の形がみんな、それぞれ音に現れてくるように私は感じる。
自然の音はまったくどれもこれも、音楽で無いものはない。月並な詩や音楽に表すよりも、自然の音に耳を傾ける方が、どれだけ優れた感興を覚えるかしれない、私たちがどんなに努力しても、あの一つにも、優れたものはできないであろう。」
第六感である「勘」は、「感性」と共に、理屈では説明のつかない感覚、心の動きである。この要素も、生き抜く上では大変重要なものであった。
これらの感覚が人々の生きることを支え、磨き、深めていた。文明の進んだ現代、その代償に失う感覚を、どのように研ぎ澄ませてゆくか。茶の湯にはそれらを高める大きな力があることを、これからも伝えて行きたいと思っている。
令和6年5月27日 畑中香名子


