11月の到来に合わせて、庭の中門や竹垣が清々しい青竹に変わる。露地は生気を取り戻したかのように活力に満ちあふれ、冬枯れてゆく木々もまたしっかりと大地を踏みしめて、来る極寒の空気に立ち向かっている。
12月も半ば、稽古の折にふと障子を開けて庭を眺めると、あの青々としていた竹垣は、いつの間にか端の方から黄色味を帯びて色変わりをしている。薄い黄緑色が元の美しい青色との境に立って、時の移ろいを示す。まさに今、ゆっくりと最後の生を全うしているのだな・・・と感じる。そして全てが黄色くなって終わっても、中門を通り過ぎる人をいつも別の世界から支えている。一歩一歩前に進もうとしている茶の湯人を・・・
花入に生けられた花も、地から切られた瞬間に運命が決まる。それでも最後の最後まで、その花入に生けてもらいながら人々の目を、心を動かす。そうして生を全うして終わっている。だからこそ、花を生けずに捨ててしまうことは、一番嫌なこと。人様から頂いた花、庭から用意した花々は、必ずどこかに生けて活かす。たとえその花が終わってしまい視界から消えても、そこに佇んでいたあの美しさ、凛とした清々しさ、感性に響く姿は、人々の心から決して消えることはない。
二十代に、曹洞宗の勉強と坐禅をさせて頂いた。その時に、道元禅師の御歌を学んだ。
春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪冴えて すずしかりけり
茶の湯に親しんでいると、この歌に出会うことがある。私はどちらかというと、禅の世界で学んだため、最初は難しくて良くわからなかったものが、茶の湯をするようになって、何となく実感できたような気がする。
「只管打坐(しかんたざ)」と言われ、坐禅堂に座る。「只管」とは、ただただ一筋にひたすらにという意味である。「打坐」は座る、坐禅をすること。坐禅は「結跏趺坐(けっかふざ)」という座り方で足を組み、「法界定印(ほっかいじょういん)」という手の組み方をする。裏千家の客の手の組み方をそのまま裏返しにして、親指同士が付くか付かないかのように楕円を作り、静かに瞳を下に向けるのである。
道元禅師が書かれた『正法眼蔵』の冒頭には、「現成考案(げんじょうこうあん)」がある。
仏道をならふというは 自己をならふ也
自己をならふというは 自己をわするるなり
自己をわするるといふは 万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは 自己の身心
および他己の身心をして脱落せしむるなり
仏道を学ぶということは自分自身の在り方がどういうものかを知ること、そしてそれは自己へのとらわれを忘れること「無我」、更にそれは全ての存在によって自己を明らかに証されること、そのことが自分や他人への執着を捨て去って自由な境地に達することと・・・二十代には難しかった。
自分は周りの様々な物事と関係しながら生かされている。食べ物も、暮らしも、仕事も、たった一人で成り立つものではない。そしてまた周りも自分も、常に変化をしてゆく、終わりに向かって・・・あの庭の青竹のように、花入に生けられた花のように。
春は花を愛で、夏はほととぎすの声を聴き、秋は月を見つめて、冬はただ雪に包まれる。ありのままの姿を受け入れ、ありのままの自然体でいる。この力の抜けた様子に、今近づいて来たような気がするのは、華甲を目前にする年頃になって来たからであろうか・・・静かに黙って遠くを見つめている人生の先輩方の、何を言わんとしているのかが、ほんの少しわかってくるような気がしている。
令和6年12月25日 畑中香名子


