Posted by on 2025年01月28日 in 風の心
令和7年2月号 風の心

 いよいよ令和七年が始動した。皆様も初釜を終え、慌ただしい年始から日常に戻りつつあるのではないだろうか。

 巳年の今年、脱皮して飛躍の年にとか、長く強く進んでいこうとか、新年にふさわしい前向きなお話が、様々に飛び交っていた。祝い年のせいか、気持ち新たに顔を上げて笑顔で進んでゆこう、と思った年明けだった。

 1月の初めには、京都ご宗家にて稽古始めにお招き頂き、新春から学び多き充実した時間だった。皆様もお聞きになられたであろう御家元のお言葉を、もう一度胸に刻もうと思う。
 玄々斎の時代から、初釜は稽古始めであるという考え方があったのだと、御家元はお話をされた。筆まめな玄々斎のこと、きっと御家元も書き記された資料をご覧になられ、その様な考え方をご存じだったのだと思う。その年に始めて、ゆかりのある方々をお招きして御茶一服を差し上げる行事、初釜。これからまた一年を共に過ごすであろう方々、そのご縁に感謝し、良き年となりますよう心を込めた一服を点てる。茶の湯は人に対するもてなしの形、或いは自分自身に対する修行である。最初の本番のもてなしが、まさに修行の始まり。つまり言い換えれば稽古始めである。心して取り組まなければならない。

 知ることは始まること、ともおっしゃられた。現代は、何か調べようと思えば簡単に答えを見つけることが出来る。それがネット社会の良さでもある。そして見つけると、そうか、そうだったのか、わかった、と思って終わる。結論は出た、と終了する。しかし、一つわかると更に二つ三つの不明点、疑問を得るもの。それ故、調べて終わりということはなく、そこがスタートだと思うべきだと。小さい頃からそう言われて育ったと話された。まさにその通り。本当に真剣に深く調べてゆくと、必ずと言っていい程更に調べなければならないことにぶつかるものだ。人に話せるくらい理解しようと思うと、様々な角度から疑問を追求する。追求の先にある数々の答えを見つけて初めて、やっとわかってくる。だからこそ、スタートに立つ事が出来る。

 お茶杓の銘は大宗匠が「暁雪」、御家元は「雨洗声聞夢」。

 もう30年前の2月、当時若宗匠だった坐忘斎御家元に、初めて台子の濃茶点前をご指導頂いた際、私が申し上げた茶碗の銘が「暁の雪」だった。寒い寒い深夜から明け方に向かって、暁の闇と光に深々と降る雪は、もの悲しくもあり、それでも輝く夜明けを痛切に望みながら降り続く。

和漢朗詠集「泉飛雨洗声聞夢 葉落風吹色相秋」

泉飛んでは雨聲聞(しゃうもん)の夢を洗ふ

   葉落ちては風色相(しきさう)の秋を吹く

聲聞 しょうもん:仏の説法を聞いて悟りを得る人。元々は仏弟子を意味したが、後世自らの利(阿羅漢)のみを求める小乗の修行者として大乗仏教から批判されるようになった。

色相 しきそう:肉眼で見える姿かたち。現象界の物質的存在。

栢菅美術料紙研究所ホームページより

 御勅題「夢」に因んだとはいえ、秋のもの悲しさに物事の心理を表す、この言葉を取り上げておられる。
昨年の出来事を想い、大宗匠、御家元のお心は「無常」と向き合っておられるのだろうか。十月一日、男の子が生まれると椿を、女の子なら槿を植えるとおっしゃられた、あの時のことが思い出される。そのご心中察するに余りあると、私は感じていた。

 御扇子に書かれた文字「流水走青蛇」、宗旦の掛け軸「夢想」。まだまだ学びは底知れず深い。だから疑問だらけ。そう、御家元はまた、私たちにスタートの場を下さったのであった。

令和7年1月24日 畑中香名子