「私は、もう少し生きるようですよ」猊下はそうおっしゃった。車椅子の上から穏やかに微笑み、その場の空気を優しさで包んでいた。有馬賴底猊下はとてもお元気で、静かに、その大きさを保っておられるように感じた。
10月、姪の結婚式の後、母と京都に延泊し、猊下のもとへご連絡をしたところ、拝顔叶うことになった。お側役の方に「では13時半で」と言われて携帯電話を切ってから、嬉しさが込み上げて来た。
ご存じのように有馬賴底猊下は、京都相国寺管長であり、相国寺、金閣寺、銀閣寺の住職を兼ね、京都仏教界理事長でもある。1923年、有馬家分家筋の父・有馬正頼男爵と、旧沼津藩主水野忠亮子爵の娘、母・明子との次男として東京に生まれる。学習院幼稚園から初等科にかけて、徳川宗広らと共に明仁上皇の「御学友」とされた。猊下が八歳の時に両親が離婚、9歳で大分県日田市の岳林寺で得度。後に京都臨済宗相国寺僧堂に入門し、大津櫪堂老師に師事、大光明寺の住職となる。教学部長、承天閣美術館設立事務局長を経て、1995年に管長となった。日経新聞の「私の履歴書」掲載文が『禅僧が往く 私の履歴書』(2004)という図書になっている。
猊下には、待光庵が始まった初期の頃に、貴人をお迎えする茶事の勉強会にお越し頂き、大変貴重な時間を賜った。正客にお座り頂き、お供を付けて正午茶事を行ったのである。煙草盆にも露地の石にも奉書を敷いてお迎えし、懐石は足付の高膳でお出しした。続いてお運びする食事は二の膳を使い、貴人様をお迎えする本当の空気を知ったのを、よく覚えている。
勉強会の最後には、参加者それぞれの希望の言葉を短冊に何枚もお書き下さり、私は横で、猊下がお書きになる為の墨をする係をしていた。一生懸命に墨をすった。しかし緊張のあまりそれを脇にこぼしてしまい、ヒヤッとしたものだった。最後に私にも短冊を書いて下さり、「看脚下」と頂いたその短冊は、今でも私の戒めになっている。
母は黒田宗光先生と共に、猊下の管長ご就任の式に参列させて頂いた。その時の話を、よく聞かせてくれる。私は、階段をお登りになるそのお姿を想像しながら、そのような瞬間に同席出来た母は凄いなあと思ったものだった。
毎年の、相国寺東京別院梅見茶会へお供の際は、小間でなさる猊下のお点前や美術館からお持ちになったお道具、高貴な連客皆様との会話を伺うのが、無知無教養の私には学び溢れるものだった。本堂2階の薄茶席では思い出のお道具が使われ、猊下が御母堂様と別れてから二度と会うことができなかったお話などを、別の和尚様から伺った。
私は時折、別院で行われた土曜日の坐禅会に伺い、猊下の御言葉に自分を正すばかり。護国寺での茶席には、一休禅師だったか、床に大きな複数の、流れるような筆跡の軸を見て驚き、飾られた唐物炭道具を見つめながら炭の手前を思い浮かべた。山形の鈍翁茶会でも、東京美術クラブの席でも、猊下はいつも同じ自然体でそこにおられた。一方で私は、新聞や御本で学ばせて頂いた猊下の生涯やその教えを、深く深く考えていた。
この度92歳の猊下に久しぶりにお目にかかり、最近先輩に教わった正受老人(江戸時代に活躍した白隠禅師の悟りの師)の言葉が浮かんだ。「一大事とは、今日只今の心なり」である。過去に戻ることはできない。未来を生きることもできない。今この瞬間にこうして生きている。その瞬間を大切にしなくて、何を大切にするのか。そんな風に微笑んでいるように思えた。
猊下を始め、今は亡き黒田宗光先生、他多くの方々とのご縁、その教えにより、母も待光庵も我々も、今なお毎日を無事に過ごすことが出来ている。このような有難い事、幸せなことはなく、日日が感謝、唯々感謝である。
令和7年11月22日 畑中香名子


