Posted by on 2019年11月27日 in 風の心
令和元年12月号 風の心

11月号よりの続き・・・
暫く宗保先生の文章を引用しよう。(問題のない所は平仮名を漢字に直した)

御家元だけは、やっと二等車に乗って頂いたが、お供の私たちは普通車である。普通車といっても貨車で、それにすし詰めであった。青森までは、今から思えば随分長い時間だが、その時はそれしかないのだから、別に長い時間にいらいらもせず、貨車に不満ももたなかった。それよりも青森について連絡船に乗る時、進駐軍に首根っ子をつかまれて、DDTの白い粉を振りかけられたのには驚いた。首筋からも袖口からも、ふっふっと身内に粉を吹き込むのである。私は頭にかけられなかったが、毛髪を真白にしている人もいた。どの人を見ても真白で、何とも言えず哀れで滑稽であった。白くなるだけで済んだのかと思っていたら、手首をつかまれて、紫色のスタンプをぺたりと捺された。消毒済の証である。「まるで豚だねえ」とお互いに顔を見合わせて笑った。

浮遊機雷がまだそこここに残っているという海を行く船の、船足は遅かった。私は別室においでになる御家元を御案じして、時々下の船室から上へあがっていった。何時ごろであったろうか、甲板に立って海を見ておられる御家元の後姿を拝見して、私はその場に釘付けになってしまった。微動だにしないという隙のないお姿であった。それは格式のある裏千家の若宗匠のお姿であったが、それだけでなく、海軍中尉と申し上げた方がぴったりするお姿であった。御家元は、浪青い海をご覧になって、亡くなられた戦友のことや、航空隊を出て散り散りになった戦友のお身の上を思っておられるのであろう。私はそう感じて、じっと後ろに控えていた。
御家元が昭和18年の11月に海軍航空隊へお入り遊ばしてから、私は密かに祈り続けていた。神にも仏にも手を合わせては、お血筋でございますからどうぞ、お血筋でございますからどうぞ、とそれだけ言って祈った。それだけしか言えなかった。国をあげての戦争である。一人だけ助けて欲しいとは祈れないが、どうしても助けて頂きたいと私は思い続けていた。円能斎宗匠、淡々斎宗匠とお仕えしてきた私にとって、御家元はかけがえのないお方であった。大切な大切なお方であった。航空隊におられた御家元が、白い夏の軍服に短剣をつられたお写真を送って下さった。裏に、千宗興とご署名下さってあって、鈴木老へと書いて下さってある。戦争中、私はこのお写真をかけてご無事を祈り続けていた。戦争が終わって、御家元がご無事でお帰り遊ばしたときは、嬉しくて有難くて、私は本当に安心したのであった。
私は御家元の後ろ姿を拝見しながら、その時のことを思い出していた。微動だにしない御家元の眼に、北の海の色は悲しく映っていたのではないだろうか。函館は雨であった。

これは、宗保先生と当時の鵬雲斎大宗匠との、貴重な心のふれあいだと思い、長く引用して載せた。若かりし日、まだ若宗匠時代の大宗匠に、こんなことがあったのだと、初めて読んだ時には感慨深いものがあった。今現在も続く、戦死した友への無念の思いと、一碗で平和を願うお姿は、既にこの時からであった。
戦争という大きな転機に遭遇し、日本国を想い、家族を想い、そして目の前に立ちはだかる「茶道」という大きな伝統文化継承の壁・・・戦後はそれを背負い・・・一歩一歩前進する、前向きにひたむきに。96歳、今も尚茶道を守り続ける強靭な精神力が、多くの茶道人の意気を上げる。

このお話にはまだ続きがある。北海道の茶道人との心温まるお話は、又次号に・・・。

令和元年11月25日 畑中香名子